和良久の夏季合宿がもうすぐ開催されます。
合宿と言えば、空手に熱中していた
若い時代を思い出します。
空手時代の合宿には夏と冬の二回ありました。
私は高校時代から毎年参加しました。
当時の極真会館の合宿は厳しく、
その様子はいまでも忘れません。
冬は三峰山に、夏は九十九里浜で開催されました。
夏冬とも朝まだ明けない暗いうちに起床し、
手早く空手着に着替えて整列し、点呼が行われます。
班長の「番号!」
全員「いち、にっ、さん、しっ・・・」と、
まるで軍隊です。
集合が遅い者がいたら連帯責任で
腕立て伏せ100回の罰があります。
夏は、二日目からになると
海水に濡れた稽古着は乾かないので、
朝着るとなんとも言えず気持ち悪いものでした。
まして炎天下の下なので
体中の皮膚はやけどのように焼け爛れて
痛くてならないのです。
その上から稽古着を着るのは、
針の山に寝かされたようで本当に地獄の痛みでした。
冬はと言うと、雪で濡れているので
朝になると凍っていてストーブで解かして着ます。
それで稽古着一枚で雪のなかを出ます。
凍えて凍えて体の感覚がなくなってきます。
雪の上を裸足で走り、また基本稽古、移動稽古、
組手などいつものように行われます。
夏も同じように、焼け付く砂浜を裸足で長時間います。
走るのは波打ち際で、膝まで海水につかって
20キロほど走ります。
途中、うさぎ跳びや体力運動も盛り込まれます。
どちらの合宿も、体力造り、
特に走るということが基本です。
冬の合宿は滝行が行われます。
凍てつく滝の下に入り、激しく落下する冷水の中で
気合を張り上げて突きや蹴りを繰り出します。
夏は、「千本蹴り」と言って、
押し寄せる荒波に向かって千本蹴るのです。
足元が不安定なので、波にさらわれたりしながら、
1000本蹴るのは大変でした。
また海の中に入っての組手で叩かれ、
あばら骨が折れたのか、ヒビがいったのか知りませんが、
息をすると痛くて我慢が出来ない日を思い出します。
このように海や山に行って荒行を行います。
これが私の経験した合宿でした。
一日目で、限度を越えた筋肉痛が全身を襲います。
体が熱を発し、寝返りも打てないほど痛いのです。
それこそ通風のように、風が吹いても痛いのです。
合宿は約一週間続きますから、初日でこれですので
後の日からは、朝の寝起きがことのほか大変です。
体がほぐれるまでは、
筋肉痛によるあまりの痛さに
顔を歪めながらの稽古になります。
合宿が終わって帰る頃は
限界まで体力を使い切るのですが、
不思議と元気で帰省できるのはあり難いことでした。
きっと若さゆえのエネルギーのお陰であろうし、
またやり遂げたという充実した気持ちに
満たされたからかもしれません。
このように空手時代の合宿は、
極寒、極熱地獄を味わった感じがします。
しかし、もう死んでも
あのような世界に行きたくないと思います。
空手と言うのは、簡単に言えば
相手を殴り倒せればそれでよいと言う
単純な世界なので、
あまり繊細な技など必要ではないのです。
馬車馬のような力さえあれば
いい線いける世界なのです。
血なまぐさい勝負の世界に
姑息な小技など通用しません。
ふにゃふにゃに力を抜いて突くとか、
気を丹田に集中してとか言いますが、
そんな悠長なこと言えるほど
勝負の世界は甘くありません。
「気」などと言うことを
ことさらに唱える武術家たちがいますが、
きっと死ぬほどの真剣勝負を
したことがないのだと思います。
勝負の世界に必要なのは、ただ一つです。
「倒す」と思って向かっていくだけです。
どう打ってどう受けてなど考えず
「ただ切ると思って刀をもつべし」と
殺人鬼、宮本武蔵も言っています。
ただ必殺の思い、つまり思いやりなどもたず
相手を殺す覚悟でいける神経が大事なのです。
こういう経験からでしょうか、
私はやたら「気、気」と言う武道を信用しません。
それは本当の気を知らないからだと思います。
何も知らない素人ならいざ知らず、
気で一流の格闘家を倒せません。
鍛えぬいた一流同士が対戦をする・・・
そんな中で気をもって触れずに倒した場面を
私は見たことがありません。
私も大いに期待をもって
気の使い手を訪ねて行ったことがありました。
是非その「気」とやらで
倒して欲しいと思ったものでした。
でもいくら倒されようと思っても
倒されたことがありませんでした。
そのお弟子さんたちは、まるで鞠のように
ぽんぽん飛んでいくのですが、
門外漢の私たちははさっぱりで、
倒れるどころか揺るぎもしません。
しまいに「あなたは素直でない」とか
「君はまだ未熟だから気のことがわからないんだ」
などと叱られます。
どうも気の力とは、
偉い先生とその直弟子さんだけに通用する
特別なもののようです。
お弟子さんが自分で転んでくれるような、
馴れ合いでしか技を稽古したことがない方は、
他の武道を批判し簡単に制せるように
信じてしまう傾向があるようです。
倒し合いというのは、いくら愛だの、宇宙だの
高尚なことを言っても、
どうせ世界の低い獣の技でしかないのです。
格好をつけないで、もっと獣のようになって
無茶苦茶な鍛錬をしたらよいと思います。
「そんな獣のようになれない」と言うのなら、
鼻から、誰が強い弱いとか、勝った負けたとか
言うことは口が裂けても言わないことです。
勝負をやるならやる、やらないなら
何があっても絶対やらない・・・・
そんな断固とした覚悟が絶対に必要だと思います。
私は以前勝負の世界、格闘技を行っていました。
この世界は獣の世界だと私は認識しています。
それはまったく武道と言うものではありません。
この獣の世界に、神を見出すことは無理です。
優しさを、健全さを見出すことは不可能です。
また、それを求めてはなりません。
戦い自体、それは人の道ではないのですから。
はっきり言いますが、
殴り合いを通して人間形成などできません。
私は武には二つの選択があると思っています。
一つは、徹底的に勝負を行うこと。
もう一つは何があっても絶対に戦わないことです。
試合をしないのなら、
われが最強だの最高だのと言わないことです。
またあそこがどうの、ここがこうのだと比較し、
非難しないことです。おとなしくしていることです。
さて、どの方法が一番楽かと言うと、
勝負を行うことのほうがゲーム制があって楽しいですし、
またそれの方が一般大衆の中で普及しやすいでしょう。
和良久も最初は強さを売り物にして
人をひきつけようか、そして、ある程度広がった時に、
当初の純粋な流れに戻そうか・・・
と考えたこともありました。
しかし、道を広げるには最初が大切です。
主旨に従い、手段をしっかり選んで形を
つくっていかないとあとが大変です。
道と言うのは、途中から簡単に切り替えられるほど
安易なものではありません。
和良久を世に出す際、
四代教主様は大変ご心配くださいました。
当初、悪気はないのでしょうが、ある方々が
和良久を広げるためと言って、
まったく今風の世間受けするような華やかな手段で
プランを立てたことがありました。
和良久が全然別のものになるのでは、
という懸念があってお断りしましたが、
そのことを四代様に報告した時、ほっと胸を撫で下ろして、
とても喜んで下さいました。
何度も「よかった、あ~よかった、よかった」と
おっしゃっておられました。
そして、「特定非営利活動法人」のことを申し上げたら、
「それがよい」とおっしゃっていただき、
それで今、和良久はNPOになっている次第です。
和良久の普及についても「いまは大変やろうけど、
きっと皆が分かるときがくるから心配せんでもええ」
とも言われました。
時間がかかっても、やはり物事は
初心を忘れず貫き通すことだということを
私は四代様から学びました。
話はそれましたが、和良久の合宿は、
聖地で神気に触れながら、
言霊の水火をもって心身を練り直します。
体をいじめて、苦しみを味わって得るのではなく、
何をなすのにもまず神様に祈ってから
楽しんで稽古を行うこと。
そして稽古中は神様の懐にある喜びを思い、
終わったら心から神様に無事を感謝いたします。
人同士ぶつかり合い、苦しみから学ぶ刻苦研鑽ではなく、
人と和合し、神様と親しみながら、
心安らかに喜びをもって行う刻喜研鑽が
よいのではと思います。
武道と言うのは神様の存在あって成立する道です。
『みろくの世になっても武道は必要である』と
三代教主様は言われました。
ならば「みろくの世の武道」とは・・・と考えるのです。
そうしましたら、それは決して殺伐としたもの
ではないはずです。
天国は和合一致の平和世界です。
そこに修羅道のような世界は存在しないはずです。
やはり『人を傷つけず、人に傷つけられず、
人も良くわれも良し』の精神を稽古の中で
実践していくことではないかと思います。
今回は空手の時代の合宿をご紹介いたしましたが、
地獄の武道ならそれでいいでしょうが、
和良久は、天国の武道としてありたいと思います。
また今回の和良久の合宿は、
それを体現できたらと思います。
この世でだけの稽古ではなく、
霊界にも通用する稽古でありたいと願っています。
永遠に変わらないものこそ本当の価値があると
故奥山師も言ってました。
肉体は期限付きですが、魂は永遠不滅です。
この現界において、魂(火)の鍛錬は、
肉体(水)を通してこそなしうることが出来ます。
火を動かすものは水であり、
水を動かすものは火と言われます。
皆の力で和良久をより円満具足なものとなし、
霊界にもっていっても恥ずかしくない技となるよう
日々精進せねばと覚悟を新たにする次第です。