■内旋(ないせん) 外旋(がいせん)
内旋は、また内回りと言う言い方もします。
外旋は、また外回りと言います。
これらとよく混同するもので、先に書きました
右旋、左旋という言葉があります。
混同しやすいので説明いたします。
内旋(内回り旋回)は、時計回りの旋回で、
外旋(外回り旋回)は、時計と反対回りの
旋回を指します。
また旋回には「地の旋回」と「天の旋回」
があります。
地の旋回は、地上で起こる波のような
旋回のことで、水平の旋回を言います。
自然現象で言えば、潮流や地震、津波、
特にはっきり現われているのが
鳴門の渦潮でしょう。
天の旋回は、天で起こる大気の流れで、
垂直旋回を言います。
自然現象で言えば、台風、竜巻などがそうです。
八剱で解説すれば・・・
「凝」
1、剱を下田で内旋で一回りさせ、
2、右手右旋、左手左旋して、
3、水(右手)の吸う息で、
右方向へ向かって打つ。
火(左手)の左旋によって体が左へ向く。
「引」
1、剱を下田で外旋させ、
2、左手右旋、右手左旋して
3、火(左手)の吸う息をもって
左方向へ向かって打つ。
水(右手)の左旋によって体が右へ向く。
「分」
1、剱を下田で内旋させ、
2、両手右旋し、
3、水(右手)の吸う息で真っ直ぐ
打ち上げる。
両手が同時に内側へ絞られるため
体が正面に向く。
「合」
1、剱を上田で外旋させ、
2、両手左旋し、
3、吐く息をもって、火(左手)の左旋で
真っ直ぐ打ち下ろす。
両手が同時に外側へ開かれるため
体が正面に向く。
<他、略す・・・・>
■水火(イキ)
火と水のことは前回のところで
ご説明申し上げましたとおりです。
水火について、もう少し詳しく・・・。
人は息だけ、つまり酸素をとり得れてだけで
命をつないでいるのではありません。
酸素以外に、例えば自然水にミネラルや
カルシウムが含まれているように、
宇宙から降り注ぐ光や水、また眼に見えない
微小な生物などからは、地球上の生物にとって、
また人体にとって必要な様々な栄養素が
大気中に含有されています。
そこには人工的に精製した水道水にはない
栄養素が多く含まれています。
これは、もちろん鼻で行う呼吸から
取り入れられることが大半でしょうが、
実は鼻からの酸素吸入以外でも、
多量に肉体に取り入れられています。
大気に混じって皮膚から、
光に混じって眼から、
音に混じって耳から、
そして総合的には手のひらから。
天を仰ぎ、両手を精一杯広げている姿勢は
古来から人類の最高の祈りの姿でした。
それは単なる祈りだけではない、宇宙から降り注ぐ
エネルギーを浴びる行為であったと思われます。
イエスも、釈迦も、また世界の賢人たちも
よく天を仰いでいました。
天に向かって顔を向け、何事かを話かけていました。
天から降り注ぐエネルギーこそ
彼らの生きる糧でした。
ちなみにイエスはこんなことを言いました。
「人はパンだけで生きているのではない」
これは人は物質欲だけで生きているのではない
・・・という精神的な気高さをもつ意味
をもつものと思います。
しかし、それ以外にもう一つの意味があります。
それは、肉体を存続させるのは、物質的な糧だけでは
人は生命を維持出来ない・・・と言うことなのです。
肉体に糧が必要なように、魂にも糧が必要なのである
・・・と言う事を言ったのではないかと存じます。
肉体が生きていくためには栄養が必要です。
同じように、魂にも栄養が必要なのです。
水火の話で言えば、肉体を活かすのは酸素
であるけれども、魂を活かすのは酸素以外に存在する
様々な宇宙エネルギーであるということです。
それが水火と言われるものです。
水火・・・それは「生きた気」なのであろう思います。
さて、和良久ではよく「イキを打つ」
「イキを組む」「イキを観る」という言葉を
稽古で使います。
私は老師によく「剱を打たないで
水火を打て」とよく言われました。
この水火というものが感覚的には分かるものの、
実際に本当に水火が打ててるのか
疑問でした。
和良久になるずっと以前の稽古は、
八剱という決められた基本などなく、
螺旋もかなりあやふやなものでした。
ですから、一所懸命な気持ちをもって打つ
程度にしか思っていなかったのです。
しかし、いま和良久の稽古に入ってから
明確に螺旋の実態が現われ、
同時に八力というものが確立されて以来、
この水火の存在が明らかにされました。
もはや水火は観念的なものではなく、
左右の手を通して、例えば手から風が吹き出す
ごとく「打つ」という感覚を得、
また相手の水火も風が吹き抜けるように
感じ取れるようになりました。
その水火は、言霊の発声により空気中に電気を起こし、
その空中電気を左右の両手をもって
螺旋して体内に取り入れます。
そして、逐電し、変電し、そしてツルギによって
放電していくのです。
手から放電する際、それは金色の光となって
放射します。その光を古来「ツルギ」と称しました。
その放射する真っ直ぐな光の形を象ったのが、
いま私たちが使っている木剱なのです。
この稽古により「水火は存在する」
ものだということが実感できます。
そして、この経験を通して、言霊というものが
どういうものかということも理解できてきます。
言霊は、言葉と言う音声とは違います。
その実態は「水火」です。
水火は、万物発生の根源です。
言霊も水火によってその姿~音声を表します。
言霊は、霊的な言葉~つまり見えない言葉なのです。
言葉は、空気中に息を発して摩擦させ、
音声に変えるものです。
ならば、見えない言葉「言霊」とは、音になる以前の
ある狭間の部分に存在するものではないかと思います。
息を吸い、息を出す。
その出てくる息が喉「ア」、唇「オ」、歯「ウ」、舌「エ」、
牙「イ」に触れて息の通り道の形を整え、
それぞれに整った形の息が、外に流れ出て
空気中を震わせ、それが音声に変わります。
稽古の最初に行う「八力」の型は、まず鼻から水火を
取り入れ、それを「音声」に変え、そして「動き」に
あらわします。こ繰り返しを基本の型においています。
呼吸(水火)→音声(言霊)→技(姿)
能楽もこの順序に則って行われているようです。
能楽の場合はこうです。
囃子(水火)→謡(言霊)→舞(姿)
言葉は飾ることが出来ても、水火は飾ることは
出来ません。
水火を観ることが出来たら、
虚と実の区別をつけることが出来るでしょう。
武道が、なぜ古来から歴史を塗り替えるほど
卓越した人間を輩出するのでしょう?
それは命がけで水火を練ったからなのです。
水火を使ったからなのです。