手利剱・・・
この言葉は、柳生の伝書に出てくる言葉である。
その意味については具体的に示された
ものは無く、秘伝とされている。
言葉で言い尽くせない部分なのである。
柳生の伝書にはこうある。
「凡夫は、有を見て無を見ざるなり。
手字種利剱には、有をも見、無をも見るなり。
有もあり、無もあるなり。
有の時は、有に付けて打ち、
無の時は、無に付けて打ち、
また、有を待たずして無を打ち、
無を待たずして有を打つ程に、
有も有、無も有というなり」
「太刀を握る手に有無ということあり、
秘伝なり。これを種(手)利剱というなり」
これを前田流に略すと・・・
凡人は、眼に見えるものしか見ず、
そとに現われない部分、
隠れた本当のものを見ようとしない。
水水火(つるぎ)の使い手は、姿あるものも見、
姿を現さないものも見える。
現実的な世界の有様をもよく知り、
霊的な世界の事情にもよく通じている。
形あるものには形をもって対応し、
すなわち、剱に対しては剱で打ち、
形無きものには、形無き技をもって対応す、
すなわち、水火に対しては水火をもって打つ、
また、立ち合う相手がぴくりとも動かないでも、
向かってこようとする気持ちを確かにとらえ、
形に現れる前に確実にそれを制し、
また、心がこちらに働く前に相手の姿、形を正して
相手に悪心が起こらぬよう事前に諌(いさ)める。
このように水水火の使い手は、
物質も精神もともに透徹しうる能力をもつ者なり。
そして、技には、顕在的なものと
潜在的なものとがある。
見えるものに対する技と、見えないものに対する技。
剱(見えるもの)に対し、剱(見える形)で打つ、
剱(見えるもの)に対し、
水火(見えないもの~気)をもって打つ。
水火(見えないもの)に対し、剱(見えるもの)で打つ。
最後に、水火(見えないもの)に対し、
水火(見えないもの)で打つという段階がある。
ものは皆、物質的な世界から精神的な世界に至るものだ。
これが技の向上というものだ。
これ、心あるものに伝えたいものの、
いまだ、それを受け取る者無し。
よって秘して(かくして)伝えるべき時を待つのみ。
忍耐、忍耐。
このように顕幽一致を実現する技、
これを水水火(つるぎ)という。
・・・ということになる。
さて、見えないものを見えるように表現するのは
困難を要する。
自分がいま見えているもの、体感したこと、
これを皆にも何とかして伝えたい・・・
そう思えども、それをいかにして
伝えるべきかと言う葛藤。
古今の武道伝達者たちに共通の難題である。
自分がいま現実に遭遇している驚くべきこと、
その事象を伝えきれない・・・これは情けなくもあり、
歯がゆさもある。
もうひとつ・・・・これを伝えると現界の秩序に
支障をきたす恐れありとするもの。
また混乱を招くかもしれない、と言ったことで
伝えることを躊躇している、ということもある。
ある程度、稽古、訓練によって精神的、肉体的に
下地が出来、抵抗力が出来て、
「その技」を伝授するのに耐えれるようになった者のみ
伝授できるレベルの類がある。
「秘伝」とは、何も隠して、
出し惜しみしているのではない。
伝えれるなら伝えたい。
これが正直なとことである。
ただ、伝えたいが、それを受け取ってくれるに
ふさわしい人物がなかなか登場しない。
それと、伝える側が、受け取るにふさわしく
教育しかねる点もある。
自分と同じ、またそれ以上のレベルの力をもった
人間を育て上げ、神の戦士として世に送ることは
急務であるのに、時がまだ至らぬのか。
そういった先人たちの気持ちが
「秘伝」と言う言葉の中に私は感じる。
形の技は伝えやすい、しかし、そんなものは
実際の時の使い物にはならない。
水火の技こそ、世がその時を迎えたときに
本当の力になるものなのである。
至高の存在はせいているのに、
まだ世の多くの人間が気づかないでいる。
せめて気づいた少数の者でもよい。
命がけで水火を練るべし。
こうしている間にも時は近づいている。
世界中で、見える者たちにはそれが見え、
凍りつく戦慄とともに、
必死で回避せむと尽力している。