和良久を開始して5年ほどが過ぎ、
近頃、なにかにと周辺もにぎやかに
なってまいりました。
私自身、これをはじめるのに際し、
初めから決して完全無欠なる自信が
あったのではなく、
恥ずかしながら、かなり、
おどおどしてスタートしたものでした。
長い間、この武道という世界に
生きてきていますので、こうすればこうなる、
と言うことは大まか予想が出来ますし、
祝う方もいれば、そうでない方もいる
と言うことも覚悟していました。
私もまだこの世に生を受けて
50年しかたっていませんので、
そういった人間くさい気持ちは
いまもついて回っています。
何かを興すということは、
たとえ何であれ摩擦の生じるものです。
その摩擦にあってこそ成長、発展もあります。
・・・なのですが、
分かっていても人間心は小さいもので、
私にはどうしても辛抱、忍耐の言葉が
座右の銘となります。
先を見ればきりがなく、
後を見れば反省しきりです。
何を言うも、何をするも、本当にこれで
いいのかと自問自答の毎日です。
それで、と言うわけではありませんが、
私はいつも神様にすがって
泣きついてばかりいます。
こんな姿を見られたら
きっと皆に言われそうです。
「情けない」と。
私の両親はすでに他界していません。
和良久を与えてくださった四代様も、
また早々とこの世を去られました。
泣きつくところが無いので、
神様にぶつけることになるのです。
神様もえらい迷惑なことです。
いつもいつもいい年こいた
文句言いのあほ男に泣きつかれて。
誰もいないご神前は、私の腹からの思いを
赤子のように吐露できる素になれる場でもあります。
大勢で礼拝するのも勢いがあって好きですが、
時に誰もいないところで一人でやるのもいいものです。
自分のリズムで、音程で、祈りに祈り、
言うだけ言えば、あとはサバサバと行動に移せます。
祈り方も、他の人が入れば当然皆と合わせた
「既製品」で行いますが、一人になると、
時に、気分によって、自分の思うままの
自由な祈り方を行ったりします。
お宮にしがみついてみたり、
剱を振るように体を動かしたり・・・
ここだけの話、人がいたら絶対出来ない
掟破りの礼拝ですが、心に思うことを言葉だけでなく、
体で表現したくなるときもあり、
ちょっと勘弁させてもらってます。
いつもではありませんよ。時々です。
でも、これは聞かないことにして下さい。
新しい人が真似するといけませんから。
祈りは、何はともあれ、まず、
ちゃんとした礼拝の仕方を学ぶべきです。
礼拝の作法には、
信仰の世界に長い間携わってきた先人たちの、
命がけともいえる
叡智がつまったものがあります。
心があれば形にこだわることは無い・・・
などと言うのは、あまりに浅薄な考えだと思います。
伝統文化を知らなさ過ぎます。
まずは徹底して形にこだわるべきです。
そうすると、やがて形あって形を離れるときがきます。
それは、まったく自然にやってきます。
私は思います。
神様という存在は肌で感じる存在です。
「おわします方」と言う存在です。
必ず心からの呼びかけにお答えくださる
慈愛深きおん方であると同時に、
いささかの不義をも許されない
まことに怖いおん方であらせられます。
これは、ちょっと・・・ではなく、
終始神様に意識を向けていれば
誰でも肌で触るごとくに感じられることでしょう。
真剣であれば、あるほどけっこうかと思います。
存在を意識できるようになれば、
自分と言う人間は一体何のために
この世に生まれてきたか、という
疑問も氷解出来るでしょう。
理屈っぽいことを言うのを
好まなくもなりましょう。
柱のような絶対的正義を
中心に思う思考に変わるでしょう。
見えないから、隠れているから、よけいに
正しきを行う意識がはたらくようになるでしょう。
とにかく「見えないけどおられる」
と言うことが実感できれば、
その人はまず幸せな人生を歩まれることでしょう。
人生は難しいと言いますが、
思えば人生は非常に簡単なもので、
難しくしているのはわれわれ人間なのではと
思うときがあります。
正しい電波に波長を合わせ、
それに合わせて生きていけば、
かなり安々と生きていけるのに、
疑う、妬む、競う、争うなど
狭い利己心からくる心に支配されていては、
本当に息苦しいと思います。
信頼し、許しあい、譲り合い、与え合うような
利他的な心が現れるときは、かなりお側に
神様がおられるといっていいでしょう。
毎日、こうした心が入れ替わり、入れ替わり
しながら私たちは生きているのですが、
なるべく神様にすがっていようという気持ちを
持ち続けていると、そのうち利己心への抵抗力も
つくのではないかと思います。
確かに人間は弱いものだと言います。
しかし、神様という存在を思ったとき、傲慢なほど、
「人間ほど強い存在はない」と思えるのです。
神という存在を知るということは、
身も心も「白く」なることだと考えています。
強い人間とは、私利を離れた誠実で潔白な人間で、
どこを探してもシミひとつ見つからない
状態であると思います。
このように、シミひとつない洗い立ての
衣類のような白い存在となれるよう
常に心がけて洗濯するのが稽古だと思います。
神様は思い上がった者を嫌われます。
しかし、自分はだめな奴だ・・・と、必要以上に
自分を見下げる人間も嫌われます。
中心を考えるとき、
その状態がきっと判明するでしょう。