自分の心と体が今どの位置にいるのか。
どこから来て、どこへ行きたいのか。
一体いまの自分はどのような気持ちなのか。
どのようにすればいまを変えられるのか。
・・・など、人は一所懸命生きていくと、
何とかして今の自分から一歩でも向上したいと願い、
様々と考える。
向上心・・・これは神様から人間に与えられた
本能でもあろうと思う。
逆に、悲しいかな、現状に甘んじ、
周囲がどんな劣悪な環境であろうが、
人がこけようが倒れようがお構いなしで、
自分さえよければいいではないかという
「けものの心」も確かに人の中には備わっている。
けものの心、これは磨き砂のような
ものであると思う。
しかし、磨き砂は本命の品物を磨く消耗品であって、
決して本命を忘れて、この砂にまみれてはならない。
光を知るために影があるのと同様で、
思えばよこしまな心も神のご慈悲のような気がする。
肉体を持つ以上、限界に生を受けた人間は、
完全に神にはなりきれるものではない。
いかな生き神様も、肉体をもっている以上
霞を食って生きてはいけない。
どうしても人間臭ささがつきまとうのは否めない。
肉体保持のために、そこそこ地球に迷惑を
かけざるを得ないのが人間の性である。
身に着ける衣服も、靴も、住む家も、道路も、
食べ物も、機械も、乗り物も、何もかも、
みんな自然界のなにかの物質を犠牲にして
つくられている。
やんごとなき生き神様と言われる人も、
悪魔のような殺人者たちも、
生を受けた最初のスタートの時点で、
その衣食住を摂取するという生命保持の
基本的ラインにおいて一応同罪人である。
ただ、大事なことは自然のものを使用するにあたり、
どれだけ神様に礼を尽くしたかが問題であろうと思う。
何事も、平然と当たり前のような顔をして
黙って使うことがよくない。
事前に「お詫び」と「お許し」という礼儀が
絶対必要事項になる。
そういったきちんとした手続きを経て、
礼儀を心得た丁寧な人たちを神は好く。
これは人間社会同様の心情である。
この世にあるものはすべて神様の肉体、
および神様の所有物であると思えばよい。
例えば道を歩くにも「歩かせていただきます」
と許しを得て、感謝して歩く人は
神様も行く道を安く歩ませてくれる。
それを、黙ってわが者顔に偉そうに道を歩くから
時に息を吹きかけられ、
また時に大地を揺らされるのであろう。
「無礼者め」と、
人の腕に勝手に止まって血を吸う蚊や、
顔の回りをうるさく飛び回るハエを
容赦なく叩き潰すようなものだ。
また、自分の敷地に植えて大事に育てた野菜や、米、
また庭に放してかわいがった鶏などを、許しを得ず、
勝手にとって、しかも感謝もせずに食べ、
あげくに食べ残したとしたらどうであろう。
人として常識的に考えても、
そういった盗人を許すだろうか。
神はどのようにお考えだろうか、と思うとき、
まず自分の心にきざす真摯なる思いと
比較してみればいい。
神は、ご自身と同じ感情を私たちにも
植え付けてくださっている。
われわれの中にある最も聖なる部分が神の一部分
でもある。
まずその一部分に聞いてみるがいい。
そうすれば理解できるだろう。
聞こえなければ祈ればいい。
心を研ぎ澄まして祈れば聞こえるように
してくださる。
とにかく私たちは盗人になってはならない。
すべてのものをちゃんと礼を尽くして、
お詫びして、そして感謝して手にすることだ。
とにかく自分のものなど何一つないと
思えばよい。
すべて神様の所有物である・・・と思えば
間違いない。
自分の体も、心さえも・・・である。
そう思うとき「生かされている」ことを実感する。
この世に住まわせていただいているということ。
稽古を行うのも「神より技を与えていただく」という
気持ちで感謝して行うことが「稽古」と心得る。
日本武道は「神武」と言われる所以だ。
この肉体も借り物だ。
心も神の分霊だ。
汚しては申し訳ない。
また、勘違いして、自分のもののように、
その肉体の一部を人にあげるなどとんでもない。
臓器の提供?愛の行為?
何を思い上がっているのだろう。
この体、神様がわれわれ一人一人のため、
その人だけのサイズに合わせて特別につくって
提供してくださった「オーダーメイド」であることを
忘れてはならない。
とにかくこの世に生を受けた以上、与えられた才能と
力を充分に使いきって活動すること。
特別製の肉体と、特別製の精神の操縦法を知って、
充分活用することこそ
神様への恩返しの一つになると思う。
※冒頭で申し上げた、自分の位置を知るということに
ついてだが、次回に述べる。