また、体をパーツとして考える外国(スポーツ)
の思想は、医学においても同じである。
臓器移植も、肉体をパーツとして考えるゆえで
起きる発想だ。
「部品」が壊れれば、その壊れた部分だけ
交換すればいい・・・心と体も別々のものだ
・・・と言う安易に考える。
それに対し、武道は、いや日本は
体を部品別に分けるような考え方はしない。
肉体と精神は一体のものであり、
体全体は一個のものである。
脚も、腕も、頭も、胴体もすべて腰を中心として
稼動しているのだ。
神から、その人独自に設計されたハード(肉体)と
ソフト(心)を与えられている。
よって、誰にも与えることも、与えられることも
出来ない、その本人独自のまったくオリジナルな
ものなのだ。
体の付け替え、臓器の入れ替えなど
許されることではない。
また、外国と日本の身体操作は、
生活の中にも反映される。
例えば日本人は、物を人に渡すのに、
渡す人が右に居たとしたら、体ごと右に向いて、
相手を正面にとらえて後、
両手で丁寧に渡すことを旨とする。
しかし、外国人は「効率良く」ということを
旨とするので、右に居る人には、
右手でぱっと渡すのである。
茶道や能楽の体さばきを見ればわかるように、
体をまるでロボットのように
ひとつの動きに対して、全身を統一させ、
集中して動いている。
右に向くなら全身を右に向け、
左に向くなら左に向く。
これを体全部をつかって動いているのだ。
座るのも立つのも、姿勢を崩さず
背筋を伸ばしたまま立つのである。
物を渡すのにも、心を込めて全身が相手に
向き直り、両手で呼吸を見計らって
静かに渡す。
一個の物体・・・と言うと聞こえが悪いが、
足も手も皆同時に稼動して一つの動作を
するのである。
このように、足も手も胴体も頭もバラバラ
ではなく、統一体であると考えるのが
わが国の身体操作法だ。
これは宗教で言うところの、一神即多神、
多神即一神と言う思想から出ている。
一つの神は八百万の神と同体であり、
八百万の神はまた一つの神と同体
であると言うこと。
体の軸が動けば、脚、腕、頭、胴体のすべてが
同時に動くという風に。
また、気持ちは、一人はすべてのためにあり、
すべては一人の人のためにある。
物事、楽しければ何でもよいというのは
絶対いけない。
それは永遠に長続きしない。
永遠に変わらないものにこそ価値がある。
永遠に変わらない動きとは何か。
その心の持ちようとは何か。
それは至極簡単なのだ。
軸があり、円周のある形状、つまり「ス」の
印のような「○」「・」のある動きであるかどうか。
このような心の持ちようであるかどうか。
これと常に自分を照らし合わせて生活することが
大切だ。
・・・最後に。
スポーツは破壊(戦争)の思想から起こり、
日本武道は創造(平和)の思想から起こった。
今日のこの競争社会を創りだしている原因の
一つが競争を煽るスポーツの普及と比例して
いることを知らねばならない。
なぜ戦後あのアメリカが日本にスポーツを
普及させようとしたのか?
その理由も考えねばならない。
(また、時代をとらえる感性の高いあの出口聖師が
なぜスポーツを奨励しなかったのかも)
こんにちの日本の状況を見るに、
ほぼ外国(体主霊従的思想樹立国家)の戦略は
成功したと言える。
(なにもスポーツを排除せよと言うのではない。
あくまで「プレイ」として楽しんでおれば
よいものを、プロ化し、金力、権力と結びつくから
スポーツ本来のもつ闘争心があらわになって
しまうのだ)
さあ、そろそろ日本人(霊主体従的思想人種)
を復活させねばなるまい。
世界平和のために。
それが出来るのは唯一日本だけである。
日本には言霊がある。
言霊が復活し「意識」「行動」「思想」を変え、
そして世界を平和に導く。
追伸
よくマスコミなどで取り上げられる。
武道家がスポーツ選手にアドバイスを
している例であるが・・・。
以上に説明したように、スポーツと武道の
身体操作法はまったく違う。
よって、もしスポーツに役立つような
武道であったとしたら、申し訳ないが、
それは武道ではない。
戦い(闘争)のために役立たない技こそ
武道であると私は信じる。