世も末となると、
人は過去にその根源を求めてあがく。
一体われわれはどこから来て、
どこへいくのか?と。
初めが分かれば、もしかしたら
行く末が分かるかも知れない・・・と。
わかっているはずであったが、悪習慣に押し流されて
忘却の彼方に流れていってしまったのか。
日本は世界の中でも取り分けて歴史のある国だけに、
先人が残した価値の高い情報量は膨大である。
細かく紐解けば、必ず時代の悪循環を脱却する答えが
どこかに書き記されているはずである。
そんな中、いま「武士道精神」というものが
見直され掘り起こされてきている。
武士道・・・サムライ・・・
新渡戸稲造の著書「武士道」が手本とされるが、
確かに新渡戸自身も武家の子であったが、
彼は、武の道をおさめたわけではないことは、
真面目に日本武道を追求した者なら、
彼の著作の内容を見るとすぐ分かる。
まるで箸の使い方を忘れた外国に住む日本人が、
日本食の紹介をしなければならなくなって
慌てて箸の持ち方を稽古しはじめたような
感じがする。
繰り返すが、どうも人というもの、
世が混迷すると「いにしえ」に思いを馳せる
本能がはたらくらしい。
映画「ラストサムライ」や、
話題の本「国家の品格」をはじめ、
多くの有志たちの話題に引用される
「武士道」とは何かと人は改めて考える。
もしかしたら、そこに日本人としての
進むべき答えがしるされているはずと。
他国の者たちならいざ知らず、
この日本でいまさら武士道って何?と
探し出すことになるとは。
やはり世は末なのか。
どこかへ置き忘れてしまったのか。
意図的に消されたのか。
日本はどのような国かと問わるれば、
直接神が矛をとって創られし
神の水火のかかった国であると私は答える。
イザナギとイザナミが
天の浮橋に立って矛をもち、
しおこおろこおろと掻き均し(鳴らし)て
創られたという創造の技が
武道の始まりなのである。
※天にある、火と水が組まれて螺旋し、
言霊が発生した様子。
このように武は神の働きを学び、体現する道である。
武道稽古により、神がいかにしてこの世を創り、
国土を経営したかを追体験することが出来る。
強きをくじき、弱きを守る心も
武道鍛錬によって育まれる。
絶対不正を許さず、誠実と潔白をもって生き抜く心も
武道を練る課程で身に着く。
常に影にいて、国を守り、民を守る公の心も
武道の鍛錬と稽古人同士の接見によって育まれる。
お茶も、お能も武士の嗜みとして行われた。
あの扇子を扱う様子、細やかな立ち居振る舞いなどは
命がけの武道修練の諸動作から来た
もの腰からくるものなのである。
近年、何でもかんでも武士道を例えにだすが、
武の道に親しんだことのない者、
つまり剱の一振りもしたことがないような者が
武士道を語るのは、まことに説得力に欠ける気がする。
サムライの生き様に憧れる人も増えてきたのは
よいことだが、勝手にアレンジされるのは
外国で行われる妙な「サムライショー」を
演じている感がする。
以前、忍者と言う映画がアメリカでヒットし、
一躍日本人ショー小杉(ケイン・コスギの父)
がスターとなった。
家の前に鳥居があったり、ドラが鳴ったり、
妙な着物の着付けであったり、
日本の忍者が中国武術を使ったり、
もう何でもありのめちゃくちゃな映画であった。
あれを見るに、
日本文化や日本武道を誤解させること甚だしく、
日本を愛するものの一人として
憤りを越えて情けないと思った記憶がある。
もしかしたら、武士道を声高に唱える者たちは、
いまそんなことをしようとしているのかも知れない
と懸念する。
一体サムライの根底にあるものとは
なんであるかご承知なのだろうか?
命がけで生きてきた、そのエネルギーの源泉は
一体どこから来たのか知っているのか?
国を思い、民を守る・・・その体を張った
命がけの思いは一体どこからくるのだろう。
正義感、思いやり、利他心、潔さ、清廉、
潔白、実直さなどは、安易に示せるものではなく、
それを育む環境と技の鍛錬によって
確かに養われるものである。
先人たちの残した洗練された技と心をノウハウとし、
真剣な練磨を通してこそ培えるものである。
この鍛錬の場を「道場」と言う。
道を歩む場である。
日本には「神道」がある。
「神」・・・これがわが国で言う「道」である。
神に祈り、神の技を学び、神の手足となって
動けるよう練磨するのが道場である。
そしてツルギは、神と人とを結ぶ神器である。
武士道の名を出すなら、まず武の道に入れ、
武の道に入ったなら、武の根源である剱をとれ、
剱をとったら振れ。
まず、剱を振る。
剱を振ることによって腰が鍛えられ、
腰が鍛えられることによって腹が据わり、
腹がすわることによって丹田が強化される。
丹田が強化されると、軸が定まり、軸が定まると
中心が出来、中心が出来ると
ものの判断を中庸にとらえ、
物事を中庸にとらえだすと正否、
善悪の判断に長ける。
そこに正義が生まれ、誠実、清廉さが発揮される。
しかも猛ることなく、叫ぶことなく、
ごく自然体で静かに決着をつける。
神の意思を覚り、その手足となって
神の創られし国を守る・・・
これが神国のサムライであると思う。