人は一個になると何も出来ない弱い生き物ですが、
神とともなれば沸々と自信が湧いて、
自分を頼もしくさえ思えてきます。
私が武道というジャンルを選んだのは、
おのれが弱いからこそ、
そこから脱したいという欲求が
はたらいたからに他なりません。
私の気持ちは、強いものへの憧れが
人一倍なのだと改めて思います。
強いもの、その強い者という対象が、
誰か別の自分以外の「力有るどこかの人」と
認めていた時の自分に比べて、
強い者の対象を「神様」と置いた後のいまとでは
まったく気持ちの大きさ、広さが雲泥の差です。
もっと分かりやすく言えば、
対象を人に置いた時にはすぐに行き詰まります。
いわゆる限界というものを感じます。
しかし、対象を神に置いた時、
行きつまりと言うものが無く、
いわゆる無限の世界を感じます。
世には神がある、無いで論議される方も
多いようですが、見えないから神はないというなら、
「心」や「思い」というのは、
いったい体のどこにあるのでしょう。
「心」や「思い」というものが存在することを認めない
人は恐らくいないと思います。
このように私たちは常に「心から」とか
「思います」とかいう表現を使います。
ただこれだけでも充分見えない世界を表現して
おり、神を認めていることになると思うのです。
一生「神」「心」というものを疑って、
まるで臓器のように細かく区分けして、
そして解剖し分析することも
学問的には大事でしょうが、
そんな難しい顔して眉に皺を寄せて、
腕を組んでいるより、
「ああ、これは神様のおかげだ、ありがたい」
と感謝する時間を多く持ったほうが
幸せなような気がします。
昔、野良仕事に出て、作業前と後に、
おてんとさまに手を合わせ、
日常は「ああ、ありがたい、ああ、もったいない」
と口癖のように言っていたおばあちゃん。
このおばあちゃんの一生は、
感謝と祈願と献労の幸せな毎日だったと思います。
うちの祖母はこんなおばあちゃんでした。
「なまんだぶ、なまんだぶ」といった
簡単な経文しか知らない方でしたが、
私なんかよりはるかに信仰心が徹底していました。
その日一日が無事終わることが、
ただ「もったいない」と言い、
不足も何も言わないまま一生を終えました。
なまじ浅知恵があり、力もある私などには、
こんな純朴な生涯など真似の出来ないことです。
武道というジャンルを選んだのも、
そんな自分を変えたいという気持ちが
そうさせたのだと思います。
創始者と言われ、また道主と言われたり、
逆に、あほうだ、思い上がり甚だしいばか者だと、
罵詈雑言を浴びせかけられたり、
まあ、覚悟はしていましたが、
こんなにきついものだとは、
はやりの言葉で言えば「想定外」でした。
その度ごとに悔しい思いが
行く手を遮断するのかと思いきや、
かえって悔悟心とともに勇気が湧いて
一層前進できる力も湧き出てきます。
これは、ほかならぬ神の存在の大きさと、
こんな未熟な私に着いてきてくださる
稽古人の皆様の、その一生懸命な稽古に
打ち込む姿あればこそです。
ともに祈り、ともに言霊を発し、
ともに剱を打つ。
ああ、こんな仲間がいるのだから、
と本当に心から力が湧き出てくるのを覚えます。
近頃、技のあり方を通して
物事を考えるようになってきました。
以下は、ある稽古人に言ったことですが、
実は自分自身に言ったことでもあるのです。
自分が打った剱を相手が受け、
そして、またかえってくる・・・。
それは答えが出るまでいつまでも続くものです。
「決め」が得られないまま、
そのままに置いておくのは、流れる水が滞るごとく
やがて水は濁ってしまいます。
剱の技で言えば
「何でこちらの剱を受けておいて返さないのか」
と言ったところです。
考え込む前に話すこと。
慎重になりすぎては先へ進むことに
遅れをとり、タイミングを逸します。
これは技と同じです。
思い立ったら、そしてそれが最善と思ったなら、
後は自分を信じ、打ち込んでみることです。
それが的外れなことであっても、
自分が正義と思ったことなら
きっと外見の的ではなく、
内の的にヒットしていると思います。
ものごと、ああだこうだと
勝手に憶測するのでなく、
また悪意に取らないで、
無邪気に正直に話すことだと思います。
また、お金についてですが、
日本の伝統芸能というのは、
すべて人の気持ち、善意によって
なりたっているものなのです。
謝礼を払う、払わないは
あくまで善意でなければなりません。
これだけ払ってやったから教えろ、とか。
芸はお金じゃないだろう、
ただで教えたっていいじゃないか。
とか、無理を言う方も、
和良久ではいないでしょうが、
他には時におられるようです。
謝礼を払う意思のない者に対しては、
それほど高く芸事を評価していないのかと
ただこちらも反省するだけです。
ものを買ったり、食べたり、遊んだりする
お金はあっても、稽古に対するお金を
惜しむ者がいます。
それはもう稽古人ではありません。
そのような人は、稽古に来て技を練っても
身につくことはまずありません。
稽古は見えないものを身に着ける行為です。
ものは代償を払って手に入れるものです。
それに、見えないものだからと言って、
稽古に対し代償を払わない、
持ち帰ろうとするのは盗人と同じです。
盗人というものは、正当なお金を払わないで
不当にものを手に入れる行為をする者です。
盗んだものは、たとえ自分の手の中にあっても
身につくものではありません。
かえって罪を山のように背負い込み、
天高く魂を上げることが出来ない者となります。
私は、これまで武道の技と心が向上できるなら、
どこへでも出かけました。
納得するまで逗留し、教えを乞いました。
それらの費用を算出すると、さあ、いったい
どれだけ使ったのでしょう。
自分にとっては天文学的数字に近いものが
あります。
しかし、振り返ると無駄なことなど、
ひとつもありません。
すべて必要であったことばかりなのです。
いまはお金に代えられない
大きな財産を得た喜びでいっぱいです。
最後に、私にとって最強の技とはなにか問われたら、
文句なしにこう答えるでしょう。
誠実という横の剱と、潔白という縦の剱。
誠実と潔白をもって正直に生きていく
ことほど強いものはありません。
そして、ゆるぎない信仰心をもつことこそ、
不退転の心技を生み出すのだと確信します。