特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座

誌上講座621「どんなことにも耐える?」

似たような話を以前にもしたような気がします。
でも近頃を思うと書きたくなりました。

何か物事を始めるとき、何かの道に入るとき
人は言います。

「私はどんなことでも耐えます。
だから私にやらせてください。
私を仲間に加えて下さい」

平身低頭で頼み込み、
お道の仲間に加わったことの喜びで涙します。

しかし、最初の感激はいつまでのものやら。

時間が重なるにつれ
人の気持ちは変化していきます。

最初の「どんなことでも・・・」と言った
『どんなことでも』とは
その人にとって一体何なのでしょう。

どんなことでも耐えるとは、自分にとって
最も耐え難いことに耐える強い気持ちを
言うのではないかと思いますが。

きっと、よくその言葉を用いる人にとっては、
どんなことでも耐えると言うのは、その場しのぎの
社交辞令みたいなものかもしれません。

例えば「命かけてもいい」とか「一生に一度の頼み」
とか言う類のものと同じように。

そう言えば、とりあえず自分の意が通ると
思っているのでしょう。

本当に、その人が望むなら、声に出ない、いや
出せないものがその人からにじみ出ます。

それを水火と言います。
日本人は元来それを観る感性が
世界一優れている民族です。

言葉はいくらでも飾れます。
しかし水火は絶対飾れません。
だから水火を見る稽古、習慣が必要なのです。

水火が弱い人は言葉でごまかします。
言葉数が多くなります。

しかし、水火が強くなると言葉が少なくなります。
感性と態度で伝えることに長けるからです。

それのほうがしっかり相手の心に
染み渡るからです。

言葉が少ないから、もちろん思慮の無い人には
物足らなく思い、読みが出来ない分誤解も生じます。

しかし、水火に生きる人は、
どのような評価が訪れようと意に介せません。

なぜなら本当の評価は水火の主である
神がなされることを知っているからです。

人からの報いはそれだけのものであり、
神からの報いは万倍にもなることを知っているからです。

また、水火を見ることは審神につながります。
善神か邪神かを見極めるの審神の道は、
この国を悪神の手から守るためにある
日本神道の伝統の技であります。

それを剱の業とも言います。
剱は、邪を破り、正しきを顕す業です。

善と悪とを断て分けるはたらきを
ツルギと言います。

いや・・・また話がそれそうです。
話を戻します。

熱しやすい人は冷めるのも早いです。

そして、自分のイメージと違っていたと言い、
自分が思っていたものと
大きくかけ離れていると言って人を攻め、
自分を正当化します。

言うだけいったら、やがて離れて行きます。

ただ黙ってはなれるならまだ良い方で、
離れるときに何人か引き連れて出て行く人もいます。

離れて、なお攻撃の手を緩めず、あそこはこうだった
ああだったとあることないこと悪口の限りを尽くして
吹聴して回ります。

まるで後ろ足で砂をかけるようにです。

映画のような陽の当たるような
自分の都合の良いストーリーが
あると思っているのでしょうか。

「どんなことでも耐える」と安易に言う人が多いのは
それだけこの国の人の腹が無くなったと言えるでしょう。

とにかく、どんなことであれ、学びの道に入ったのなら
自分を虚しくして受け入れる準備が出来てないと
いけません。

どんなことであれ、大局を見つめ、
人を動かす見えない神のはたらきに注目し、
それに従い、それに身を委ねることです。

大局を見続けている限り
決して道は誤ることはありません。

しかし、目先のものばかりに眼をやっていると
いずれ行きつまり、底が見え透いてしまいます。

どんな偉い人でもきっと
長い年月の間に底が見えてしまいます。
同じ人間どうしだから仕方ありません。

でも、それは、家で言えば、奥の間を見ずに、
玄関か台所あたりを見ただけで、
その家のことを全部しったような気持ちに
なっているのと同じです。

けっこうトイレなどを見て
引き返す人も多いのではないでしょうか。

奥の間まで行けば、見事な掛け軸が飾ってあり、
お香がたかれ、綺麗な花が生けられているでしょう。

そこまで入っていかずに、
玄関あたりで帰ってしまうとはもったいないことです。

そこからが新たなスタートが始まるのを知らずにです。

その底から何が見えるか、その人の表面の心ではなく、
奥の心を本当に観れたのなら、そして
それが本当にたいしたことでなくば
去っていけばいいでしょうが、
たいがいは奥までいく辛抱がありません。

たいがいの人は、学ぶ対象の芯まで到達もしないで、
たいしたこと無い・・・と、文句を言って去っていくのです。

決して人と言うものは自分が思うほど浅い代物では
ありません。以外に深く広いものなのです。

閉ざされた心の門の向こうを見る機会を得ると、
なんて澄みきった綺麗な世界なんだろうと
誰しもきっと驚愕することでしょう。

そこにあるのはまさに神なのです。

あなたはそこまで観たことがありますか?

もし、そこまで観ることが出来たなら、本当に
どんなことがあろうと耐えていくことが出来ます。

美醜相交わっているこの現象界であっても、
真実の姿は「美」であり、「清」なのです。

それほど綺麗なものなのです。門の向こうは。