特定非営利活動法人 武道和良久

特定非営利活動法人 武道和良久

誌上講座

誌上講座625「米と言葉と両手(1)」

近年、日本人の体形や動き方が
大きく変わってきた。

体つきが本来の日本人の体形から
大きくかけ離れ、
顔も彫が深く、足が長く、ごつごつした
筋肉質の皮膚組織の眼の粗い
欧米型の体形が多く見られるようになった。

一見して日本人か、外国人か
区別がつかなくなる。

今で言う、格好が良いというのは
欧米の人間の体形を差すようだ。
老いも若きも
欧米型のスタイルと生活に憧れる。

アルファベットによる
文字の配列と言語のせいか、
相手を見る眼が縦ではなく
横にものを見る人が増えた。

誰にでも馴れ馴れしくするけじめの無さと、
人をなめたような態度、そして理屈っぽい性格は
かっての日本人にはそれほどいなかったはずだ。

戦後ますます
それは急加速していったように思う。

横にものを見るとは、例えば長上を敬し、
立場をわきまえると言った
縦の精神が日本の常識であったが、
誰でも皆同じだと言う自由主義のゆえか、
すべて「○○さん」呼ばわりする
横の目線で相手と接することだ。

学校でも会社でも、
「先生」とか「社長」とか言う
敬称など使わず、すべて「ミスター」と言う、
欧米にならってのことであろう。

これが開けた考えだと言う。

確かに、それは開けていて自由で素晴らしい
と言うことも言えようが、
それは裏返せば秩序が無いのである。

長上を敬する心と、
謙譲の美徳が無いということでもある。

かの国において、自由、平等、博愛などを掲げながら、
差別、貧富の差、戦争などが今だ尾を引くのが
それをあらわしている。

「先生」という定義は、必死で研鑽を積み、
苦心のあげく、誰にも真似の出来ない知恵と技を
身に着けたスペシャリストを差す・・・
と自分なりに思っている。

また、第三者がそれを学ぶに値すると判断した限り、
やはり先生という存在に対し敬意を表すべきである。

会社を経営され多くの社員の生活を守る以上、
その貢献度と労苦に対し、敬意を表し
「社の長」なのであるとして立てるべきではないか。

しかし、確かに尊敬に値しないような
先生や社長も多い。

肩書きだけに負ぶさって、何もしないでいる
どうしようもない人間もいるのは事実だが、
そういう努力忍耐の無い人間は
先生や社長としての命も短い。

上に立つということは
命がけでなければならない。

着いてくる者が、自分の人生を賭けても
悔いは無いと思えるほどに。

部下が失敗をすれば全責任は自分が負い、
場合によっては腹を切る(辞任する)ぐらいの
覚悟があってこその「上」の役である。

自分の手柄を立てるべく影でこそこそ策を弄し、
何かあれば下に責任をおしつけるような者は
言語道断である。

力もないのに上に立つ、
それは砂上の楼閣のようである。

そんな輩はやがて
ちょっと風が吹けばもろく崩れていくだろうから、
いつまでものさばってはいられないものだ。

すぐ消えていくだろうが、
心あれば自分でそれに気づき過ちを正し、
正義に目覚めるべきである。

そんな偽者は、もちろん頭からなめられる。
それを見破る近頃の若い人は、
あるいは正直とも言える。

それだけ鍛錬されておらず、
威厳がなくなってしまった・・・
つまり腹の無い人間が
上に立ってしまったと言う事だ。

上が悪いから下がだらしないのか、
下が悪いから上がだらしないのか・・・
誰が良い悪いという、
そんな責任転化を問題にするのもやめよう。

国が悪いから、
われわれ国民の暮らしが良くならない。
なにを言う、そんな政治家を選んだのは
国民じゃないか・・・などと言っても
はじまらないのでは。

もう、何事につけ
人に責任をおしつけるのはやめよう。

大衆の心、群集心理というのか、
群れをなす小魚のような生活ではなく、
大海を悠々と泳ぐ者となろうではないか。

政治、スポーツなどの評論家や、
シンクタンクや、コンサルタントなどを経営し、
おのれは何をするでもないのに、
外国かぶれの批評ばかり言う者たち。

そんな輩は放っておいて、私たちは日本流に
自分の足で先に行こうじゃないか。

まず自分で考えよう。

そのためには、まず日本と言うものを考えよう。

日本はどういう国なのかを考えれば、
いま何をなすべきなのかが分かるはずだ。

いや思い出すはずだ。