私たちは生きどおしに行き続けています。
もちろん物質なる肉体と言う衣服は
年とともに耐用年数があり、朽ち果てていきますので
着替えなければなりません。
しかし、中身である本来の私たちは
その肉体と言う衣服を着替えて、着替えて、つまり
その時の思いに応じた、自分にとって分相応な、
まったくふさわしい色、柄、サイズを選択して着し、
はじめて姿、形をこの世に現します。
何度と無くこの着替えを繰り返す様はまるで、
結婚式のお色直しのようであります。
「次はパーティーがあるので、ちょっと隣の部屋に
行ってパーティードレスに着替えてきます」
「次は農作業があるので、ちょっと隣の部屋に
行って作業着に着替えてきます」
次に私たちが臨む催し物は一体何なのかは、
人によって様々でしょう。
いままで、パーティーを堪能してきて後片付けを
しなかったら、次は会場を掃除する役目になる
かも知れません。
いままで、泥にまみれて作業をしていたのなら
次は収穫祭で大いに楽しむのかもしれません。
いまの私たち各自の目前に展開されている人生が、
自分にとってどういった場面なのかは、
いままでのこと(前世)の延長でしかありません。
私はこの世に生を受けてから何にも悪いことなど
していないのに、何でこんなひどい眼にあうの?
こういった疑問は自分一代の人生を振り返ったとて
容易に理解できないかもしれません。
いま有る人生は、永い永い魂の歴史の中で培った
結果に他なりません。
そういった意味で、私たちの人生は理不尽ではなく、
大局から見れば非常に平等であり、公平で、
そして理に適っていることなのです。
罪は「積み」の重なりであり、
埃が知らず知らずにかぶってきて、
掃除を怠っているといつの間にかそこに
何が置かれてあったのかさえ分からなくなるほどに
積みあがっています。
しかも、長い事放っておくと角質化し、
汚れやシミとなり、それは容易にとれなくなって、
置いてあるものが使えなくなって、
結果捨てねばならなくなります。
この世で、あなたがのぼせ上がっていたら、
あなたがのぼせ上がったことによって
嫌な思いをした人たちの気持ちを知るため、
次にはその側にまわらねばなりません。
あなたが多くの人にいま
慈しみ深く人に接しているなら、
あなたによって喜びを感じた
多くの人たちの気持ちを知るため、
次には多くの慈しみを受ける者となるでしょう。
このように人生は複雑ではなく、
ものすごく簡単なシステムで
構成されているのです。
これは子供でも知っています。
良いことをすれば良いことがあり、
悪いことをすれば悪いことがある・・・
というやつです。
眼には眼を、歯には歯を・・・
と言う言葉があります。
まさにこの通りであると思います。
この意味は、やられたららりかえすと言った
冷酷な報復のことを言ったものではなく、
またそれは現世のことを言ったものではなく、
永遠の魂の平等性を保つための法則を
端的に表した言葉です。
眼は、決して顔の中の眼というのはなく、
言霊で言えば眼は芽であり、光であり、希望であり、
火であり、霊であります。
歯は、刃であり、働きであり、活用であり、
進展であり、水であり、体であり、向上である。
「眼には眼を、歯には歯を」と言うのは、
これから光にむかって伸びていこうとする志を
断たれ、夢と希望を奪われることを行い、
人に対し、このように暗闇に放り込むような
事を行うと、行ったものは、夢も希望もなくすような
暗黒のどん底の世界に落とされるような眼に合う
ということを言っているのです。
それも、自分ならいざ知らず、
「もっとも苦しい目に、生きながら暗闇に落ち込む」
ということは、わが子であるとか、
自分の愛する者を奪われることでありましょう。
人は血肉を分けたものの死ほど
つらいものはありません。
ちなみにわが子を、自分の都合わがままで虐待し、
死に至らしめる者たちがあります。
これは論外で、このようなことを行う者は
もう人ではありません。
生きながら鬼畜になってしまったものであり、
次に人として絶対再生することが出来ません。
人は、神の布いた法則に従い、
誠実に潔白に生きていくがゆえに人なのです。
ひとは、神の霊の留まるゆえ「霊留」と言います。
(これを言霊で言えば「スーウ」ということです)
人は、このように、何も努力をしなければ
そのまま報いを受けることになります。
しかし、たとえ前の世で、
また今の世でも罪を犯したとて、
その後すぐに神を認め、その光に浴し、
生きながらに死ぬような思いで
魂を入れ替えて心を悔い改め、
人々を愛し、公共に全身全霊で尽くしたのなら
それはあてはまりません。
神は私たちにいつも
起死回生のチャンスを与えて下っています。
幸いなことに神は「直霊に見直し聞きなおし、
身の過ちは宣り直す」ことで
回避できる道を許されているのです。
直霊と言うのは、「ス」主神がわれわれ人に対して
直々に下された魂のことであり、これを一霊と言い
また「ウ」と言い「省みる」と言う精神です。
直霊に見直し、聞き直し、宣り直す・・・とは、
神より直々に賜りたる霊魂をもって省み、
見る(眼)、聞く(耳)、言う(口)を清らかに慎み
深くせよと言うことであります。
つまり、端的に言えば「一霊四魂」の働きを
発揚させれば人は新しい命を得る(生まれ変われる)
と言うことになるのです。
これを言霊で言えば「スウアオエイ」となります。
和良久でこの八力を行う際に、天の数歌で、
「ひと、ふた、み、よ・・・」と数えています。
ここで数える「ひとつ」の数の単位は、
私たちの数のひとつと言う、
たった一秒足らずの容量ではなく、
広大な宇宙の単位であります。
神の呼吸(一息)には、
瞬間と永遠が同時に存在しています。
私たちが永遠と思われる時間でも、
神からみれば一瞬であります。
逆に、我々が一瞬であることも、
神の国では永遠になります。
例えば、人が
「たったこれぽっちのゴミ一つ落としたから
と言ってもたいしたことじゃない」
と思っていても、神の世界からみたら
山ほどのゴミとなっているのです。
また、この世における小さな親切は、
神の世界ではおおきな評価を受ける
ということです。
少しぐらい・・・と言う軽い罪なつもりでも、
心の世界においてはそうはいきません。
事の大小は神が計ることであり、
善悪もまたしかりです。
たった一息・・・は、
それほど大切なものなのです。
神の一呼吸は、私たちの一生が百年としますと、
神の一息にも満たないものです。
宇宙は、神が唱えた「スウアオエイ」と言う
たった六つの言霊によって生まれ、
何と五十六億七千万年もかかっているのです。
私たちがこの言霊を発声させれば
10秒ほどの短い時間で終わります。
しかし、それは神の呼吸に換算すると
宇宙を創造するに値する容量があります。
1~10を数えるのに、これは
「人と言う宇宙が出来るまでの数」つまり
「人の一生」と考えていただいて天の数
歌を唱えていただくと
非常に感慨深いものがあります。
そこに宇宙創造ー天地剖判ー修理固成ー生成化育の
歴史を感じずにはおれません。
人の命(魂)は永遠です。
肉体を入れ替え、入れ替えしながら、
永遠の旅を続けていきます。
それこそ日本に留まらず世界中を旅し続けて、
色んな国の情報を学び、
色んな環境を経験し続けています。
また、地球のみならず、宇宙を旅して
様々な惑星の有様をも検分し、
天地の真象を観察していきます。
そして、肉体の入れ替えを行う際、
いったん現界を離れ、霊魂の世界、
神の世界などに戻り、
そこの世界のことどもをも把握していきます。
まさに私たちの命は
三千大世界を流転して止みません。
壮大な魂の旅はこれからも続きます。
願わくば罪と言う重荷を背負うことなく、
これからも軽やかに旅を続ける努力を
怠ってはならないと思います。
今と言う瞬間を軽んじることなく大切に思い、
縁有る人に出来る限り誠意と潔白を
尽くすことでしょう。
神の如くに人を愛し、人に愛されること、
これが究極の人の姿ではないかと思います。