和良久は、どういった経緯で生まれ、
何を目的として活動を開始したかと言う事は、
後世のために忠実に、
正直に書き残しておかねばと思っています。
私は、少なくとも和良久には
100年は残ってほしいと思っています。
100年残って、ようやくに本物と成れるからです。
それまで、私をはじめ、
今の稽古人のすべてがこの世に存在しません。
その間に、和良久は様々に解釈され、
また時代に応じて変化を余儀なくされることかも知れません。
しかし、心ある人がちゃんと真意を汲み取って
継承してくれるであろうことを信じています。
私たちは確実にこの世から姿を消しますが、
私たちが守り、育ててきたこの和良久の技は、
まるで遺伝子のように、
人から人に伝承されていくことでしょう。
その時、私たちは永遠に彼らの技の中に
生き続けることになります。
同じ思いをもって、同じ動きを後世の人たち、
つまり、私たちの育てた「子」らが、
その時代の「守り刀」となって生きていってくれたらと、
遠い未来に思いを馳せています。
私が、恥を忍んで回顧録を書くのも、
こういった経緯で、こういった思いで和良久に至った、
ということを知ってほしいがためです。
そして、その初発の思いがいつまでも変わることなく、
持ち続けてくれることを願っています。
私は、いままでも、
たくさん和良久について書いてきましたし、話してきました。
私も、皆さんに話しながら、また書きながら、
この和良久について整理が出来たのは
予想だにしなかった副産物でした。
そう思えば、人は人に話すことにより真理を見出すようです。
「言霊の助け」とはよく言ったものです。
さて、これからも稽古や、この誌上講座を通して、
皆さんに和良久のことを
知っていただく努力を続けてまいりますが、
これだけは知っていてほしいと思います。
・・・私は様々な武道修行を経て、
27歳の秋に「大本」と言う一宗教団体に流れつきました。
そこで出会ったものは、
いままで自分が追い求めていた理念と実践のともなった
「まことの武道」のあるべき姿でした。
いえ、日本の姿と言っていいでしょう。
それは、もっとも古くて、
もっとも新しい技を予感させました。
もしかしたら、この技なら
世界を救うことが出来るかも知れないと思いました。
そして、いままでのしがらみを捨てて、
もう一度内弟子生活に入りました。
それに値するものと思ったからです。
思えば、私は物心ついてからというもの、
ずっと内弟子生活をしています。
もちろん、師や周辺の方々に一切迷惑をかけぬよう
自分で生計を立てての押しかけの内弟子志願でした。
いわゆる手弁当もってです。
内弟子と言っても、これは私の勝手な物言いであって、
師は私を内弟子と思わなかったでしょう。
師や道場からも、特別な計らいなど当然ありません。
また、これっぽっちも望んでもいませんでした。
とんでもないことです。師に迷惑をかけるなんて。
稽古を受けるのにもちゃんと月謝を払わせていただき、
道場の行事に関しては、身を呈して仕えました。
その時、一番怖いことは何かと言えば、
先生や道場が必要とするときに、
そこに自分が居ないということでした。
役に立たないことが怖かったのです。
見知らぬ土地での生活が始まる不安など、
これから始まる素晴らしい稽古に比したら
なんでもないことでした。技の習得こそ人生でした。
内弟子に入るに際して、衣食住は自分で調達しました。
自分で家を探して道場の近くに住居を定め、
また食べるために職を探しました。
最低限度の住まいでした。四畳半一間に裸電球一個。
食べるものは一日パン一個ありつけたら上等でした。
着るものも夏も冬もありません。年中同じ服を着ていました。
時折、両親から送ってくる食べ物や衣類に涙を流したものでした。
仕事も、いつでも休めるような力仕事で、
日当で暮らしてました。
そうしないと、先生や道場に用向きがあったなら、
飛んでいけないからです。
師や道場の用を第一に、自分の用をそれからにしました。
ですから、本当に爪を灯すような生活と言いますが、
経済的には未来も何もあったもんじゃなかったんです。
先輩から言われた
「必要なことは神様が用意してくださる」
と言う言葉を私は信じていました。
その証拠に、もちろん稽古のためではありますが、
私は高額な日本国中や外国旅行にも、なぜか行けました。
稽古に関することなら
いつも神様が取り計らって下さいました。
芸能人と肩を並べるような大きな大会や、
イベントにも招待を受けました。
裸電球の下で暮らしてる男がです。
私が欲しいのは唯一「神から讃美される力」でした。
それに比べたら、
現世の飾りなど土くれに等しいと思っていました。
このように、手弁当で押しかけ、
勝手な弟子入りでしたが、これはいまでもそうです。
さて、私の日常をご存じない方も多いと思いますので、
ついでに紹介します。
私は、ご承知のように、
ほぼ毎日、どこかの稽古場に足を運んでいます。
月曜は大阪、火曜は神戸、水曜は姫路、木曜は愛知、
金曜は亀岡、土曜は熊本、日曜は京都。
そして、週を変えて、東京、横浜、熱海、徳島、
また臨時に発生する講習会や講演、時に海外など、
現今私の回れる範囲で回らせていただいています。
しかし、日中や、稽古の日に当たってない日もあります。
そんな時は、亀岡の大本本部の内事室と言うところに
奉仕にあがっています。
これは亡き四代教主様の言いつけで、
いまだに続いて上がらせていただいています。
もちろん手弁当です。
これは、「仕える」と言う、
内弟子の時の純粋な気持ちを忘れないでいるために
大切なことだと思っています。
奉仕生活と内弟子生活とは良く似ています。
私は、奉仕とは自分で衣食住を確保し、
他に経済的に迷惑をかけないようにして
初めてなせることだと思っています。
そこで、お手当てをもらってしまったら
会社員となんら変わりません。
役に立たない私に
引き続き奉仕にくるようにおっしゃっていただいた
五代教主様には感謝して止みません。
私は、50歳になっても大本の神様に学ぶ内弟子です。
この章の最後に和良久のルーツを書きます。
なぜ書くか?
これは本当のことだからです。
たとえ、和良久は宗教じゃないかと言われても、
前田は、大本の回し者と言われても、
本当のことは曲げるわけにはまいりません。
私は、世がどのような評価をしようとも、
この技を世界に広げるつもりです。
なぜ、改めてこのようなことを書くのかと言われれば、
最初に書いたような訳だからです。
和良久は、大本四代教主、出口聖子様に
ご命名いただきました。
和良久は、大本神諭全7巻を基本精神にしています。
和良久は、霊界物語全81巻を活動指針としています。
以上、三つ、和良久を学ぶ稽古人の皆様に伝えておきます。
大本で生まれ、世に出て行った和良久が、
今後どのようになろうと、
以上のことは忘れないでいただきたいと思います。