「言霊」 〜その使い方
前にも申しましたように、言霊は手間ひまかけて、
愛情込めてつくりあげるものであり、
球体となって磨きあがるまで安易に出すものではないようです。
よく日本では「腑に落ちる」という言葉を用います。
何事も事が腹に納めるまでには時間がかかります。
頭で考えても、後で思い悔やむことばかりです。
物事は腑に落ちてこそ得心するのです。
食べ物で例えますと、食べ物はよく噛んで、飲み込み、
消化をして腹に納めます。
そして必要な養分のみを体に取り込み、不必要なものを体外に排出します。
言霊の運用もこれと同じです。
元来日本人は、ひとつの言葉を出すのに、
言葉をよくよく選んで使っていました。
それは本当に短い言葉に置き換えて、
相手に伝えてきた奥ゆかしい民族でした。
一つ言葉を発するのに、どれだけの労力を用いたか計り知れません。
神代においては一、二言で充分相手にその意が伝わるとい言います。
また言葉を愛し、大切に扱ったとい証に日本には短歌という
薫り高い文化があります。
祖先たちは言霊をよりリズミカルにし、
そして思いを明瞭に伝達するために短歌というものに集約しました。
洗練された言葉は、珠玉の如き輝きを放って
相手の深層心理に食い入り、染み渡るようにその思いを伝えたのです。
「言霊の幸はう国」とはよくいったものです。
・・・そして、近年。
言霊は、言葉に変わり、ついに音声にまで戻ってしまいました。
それは先に言った作業工程を経る事無く、
つまり腑に落ちるこ
となく、頭で考えたことを、
即言葉に出す・・・という外国的なの文化の導入があったからと存じます。
こういった丸くない、角張った、そして中心のない言葉には、
やはりこちらの中心に響いてくるものがありません。
中心のない言葉は言霊ではなく、たんに言葉です。
「思ったことは今すぐ言葉に出しなさい」
「イエス、ノーをはっきりしなさい」
「感情を隠さずはっきり表に表現しなさい」
・・・これは我々日の本(霊主体従)の精神文化になかったものでした。
最近では他国より「フラッグを示せ」とまで強要されています。
そんなことを言われるほど蔑まれて本当に情けないことです。
日本人を、日本人として認識していない結果でありましょうし、
また日本人自身も言霊のあり方を忘却し、
日本人としての威信を無くし、その結果他国から卑下されるのでしょう。
前にも申しました様に、中心への力の集約こそ言霊であり、
中心的立場、中立的立場をとるのが大和(大いなる和合)の
国の人民の特性です。
前後、上下、左右を良く知り、しかしどこにも属さず、
どこにも和することが出来る中庸の精神をもった国です。
世界を平和に導く使命を帯びた国です。
中立とは、決してあやふやな立場というのではなく、
事あらば (神威発揚せば)いつでも立ち上がり、
そして全世界のために身を挺して尽くすことが
できる状態を
もったことなのです。
我々は・・・
上か?下か?
前か?後ろか?
右か?左か?
・・・そのどこでもありません。
私たちは常にその中心に、最もど真ん中に位置していなければ
なりません。
上を思い、下を思い、
前を思い、後ろを思い、
右を思い、左を思い、
誰にとっても最も善きことを選択して語り、動かねばなりません。
国祖の一名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であり、
これは宇宙創造の独一真神でありますが、
この天之御中主神は「中心力」であると霊学の祖、
本田親徳師は「道之大原」で説かれておられます。
『天主(天之御中主神のこと)一物を創造す、
ことごとく力徳による、
故に善悪相混じ、美醜互いに交わる』
この中心力を守るべく、
そして発揚すべく託された日本民族としての誇りを取り戻し、
なにがなんでも争う事無く、世界を和合の精神に結び合わせるべく
立ち上がらねばならないと思います。
和良久は、そのための言霊の学びです。
続く・・・