「魂の欲するままに」
うちの子供が小さい時の話ですが、
あまりしきりにあるオモチャが欲しいとせがみますので
「なんでそんなに欲しいの?」と聞いてみました。
すると子供は「欲しいから欲しいんや」とあっさり答えました。
「・・・だから」と言う理由の無い、
このシンプルな答えに私は「なるほど」と妙に納得しました。
欲しいから欲しい、やりたいからやる、言いたいから言う。
・・・単純に考えれば本能のままに動くと言うのは
下賎に感じられるかも知れませんが、
思えば物事はこのように理由(下心)が無いのが本当なのかも知れません。
「魂の欲するままに」と言いますが、
魂からの叫びというのは言葉に尽くしえないものです。
もしそこに何らかの理由があったとしたら
純粋さが無くなるように思えます。
例えば結婚相手を決めるのに、顔が良いからとか、頭が良いからとか、
収入が良いからとか・・・
そこに何かの物理的理由がついたとしたらその瞬間に純粋さが失せます。
物理的理由で一緒になったとしたら、いつか崩壊するに決まっています。
理由が見つからない、ただ好きだから好きなんだ・・・
という、
そういう言葉に尽くしえない、
まるで子供がその理由を見つけられず泣き叫ぶ、
と言うような、感情のほとばしりが本当なのではと思います。
魂を動かすものは魂しかありません。
神の存在についても同様です。
なんで信じないといけないのか、
神なんてどこにいるのか、
などと存在の理由を求めるのも 疑念深き人間の性かも知れませんが、
すべての良き事が神の現われであると信じられたらどれほど
幸せかと思います。
無学文盲のおばあさんが野良仕事を終えて、
「おてんとさま」に手を合わせ「ありがたい、ありがたい」と繰り返す様子は、
本当に尊い姿であると思います。
無いと疑うより、有ると信じたほうがどれほど幸福な気持ちになれましょう。
神は心と物の中心であります。
この中心あってすべては巡り巡っているのです。
中心あってこそ秩序が生まれバランスが保たれています。
中心無くては、すべての存在はありません。
中心から発する力による「思い」そして「言葉」と「行動」こそ
幼児の如き純粋無垢なる魂の叫びではないかと思います。
私たちは、これを大切にしたいと思います。
幼児のように純粋無垢な魂の叫びを忘れないように
日々を送りたいものです。
続く・・・