ツルギが選ぶ、縁有る者
前の項で、「我々がツルギを選んだのではなく、
ツルギが我々を選んだのだ」と言いました。
そうすると、今稽古が出来るのも
「しているのではなく、させられている」
と言った方が正しいのかも知れません。
いま稽古に参加されておられる方で、
和良久を稽古する理由を明確に述べれる方は
いないのではないでしょうか。
私は思います。
「だから尊い」のではないかと。
何か世俗的な理由があって来る人たちと違い、
「良く分からないけど、ただ何となく惹かれて」
という人が多い和良久。
そう、それが正しいのです。真剣なのです。
例えば、恋愛についてもですが、
「あの人は顔がいいから」とか
「金持ちだから」とか「やさしいから」だとか言った、
なにかの理由がもしあったなら
本物ではない証拠だと思います。
本当に物事に感動し、心打たれたなら、
それは言葉にならないし、
形として表現出来ない分野になってしまうのです。
顔や姿、権力、財力など、物質的欲心を超えて、
心から本当に人を好きになったなら、
そこに理屈を越えた心理が発生いたします。
「言葉に言い表せない」言葉を失った現象に
遭遇してしまうのです。
心の底から「好きだ」という純粋な感情のみが
支配します。「好き」の他に理由がないのです。
いわゆる開いた口が塞がらない、というやつです。
ただ沈黙のみです。
そして、そのような状態の人は、
暗く沈む事は無く、
むしろ明るく輝きを放ち出します。
これが本物です。
この状態こそが、結婚すべき相手との遭遇です。
これと同じ現象が、
いまの和良久に稽古に来る皆さんなのです。
さて、逆に途中で稽古から遠のく方がおられます。
仕事の都合で、体の状態で、
住む場所が変わったから・・・。
これは一見不可抗力の現象に見舞われたように
思われますが、決してそうではなく、
ツルギが行った取捨選択のような気がしてなりません。
それは見放した、と言うより
「この者は、われを扱うべき者の一人なのか」
・・・そういった御試し(みためし)、つまり、
その者の心を試しているように思えてなりません。
離れても稽古をするものはします。
そして自分で自分の稽古の仲間を集め、
稽古場をつくります。
どんなに稽古場が離れていても一所懸命に通います。
時間が無いから、遠いから、忙しいから、
体の状態がよくないから・・・
そういった理由の方の大概は厳しい言い方ですが、
縁の無い者といって言いようです。
とにかくツルギは生きていることは間違いないようです。
ツルギは娯楽でも、格闘技でも、
スポーツでも何でもなく、
日本の心と体を取り戻す鍛錬法なのです。
稽古の際にも「自分がこの剱を振っている」
と言うのではなく「剱に振っていただいている」
と言った方が正しいようです。
私はこのツルギの尊さとともに、
怖さも充分に知っています。
私(前田)も人ごとではなく、
いつも祈りながら剱をもたせていただいています。
皆様同様、私も「縁有る者の一人」でありたいからです。
続く・・・