「ツルギと木剱の違い」 (2)
私も過去に自分の木剱、相手の木剱など、
たくさんの木剱を折ってきました。
奥山忠男先生が「またですか」そう呆れるほど折ってきました。
しかし「いいんです。これは道具ですから」
そのように、先生はきっぱりと言い捨てておられました。
奥山先生は、木剱造りに生命を注がれました。
その先生作成の木剱は、まことに見事なものでした。
あのような木剱を削れるようになるためには、
単に削ると言う職人さんだけの仕事では不可能です。
現に同じ形をつくれる方がいらっしゃいますが、
「実際に稽古されれば分かるのに・・・」
といつも残念に思っています。
稽古する者こそが削れる・・・これが本道だと思います。
弛まない稽古鍛錬を通して、その剱の扱いを学び研究し、
螺旋の技というものを、また宇宙の法則いうものを
しっかり理解しなければ、
あの木剱を良く仕上げることなど出来ません。
私も師にならって何本か削りました。
削ったものはすべて人に差しあげました。
技がまだ未熟な時代のこと、いま思えば
形ばかりの水火の悪い仕上がりだったことを思い出します。
木剱は、いつか朽ち果てる道具です。奥山先生が、
そう認識しているように私もそう認識しています。
剱は、飾るものじゃなく使うものです。
大事なことは内面の充実のために鍛錬するということです。
しかし、より深い内面の充実は、
外側の高い次元の存在が内に比例してくるものです。
内面の向上のため、よい道具を選び、
よく管理していくことが大切です。
かといって過剰な扱いは
かえって遠いものにしてしまい身につきません。
ツルギを目指し、そのために一心に練磨を積み、
手の内に水火の力満ち溢れた感を得た時、
形ある木剱は形を消し、無形の、祈りにも似た
ほとばしるエネルギーの延長というのでしょうか、
渦巻く螺旋の力と言うのか、
そういったものが手の内に感覚として残ってきます。
そうなれば、もう手は木剱を選ばず、
腰に位置する八力の活動力のみが表に現われてきます。
願わくばツルギの神霊に満たされ、
神の手足の一部としてお仕え出来れば幸いです・・・
和良久に関わる者は、
そう祈って稽古に励まれることを切に。
続く・・・