審神(さにわ)〜正邪の見分け (2)
さて、かのイエスは人に癒しを与える時に
こう言った。
「あなたは私を信じるか?」
そして「信じます」と言った相手に対し
癒しを施した。
癒しの術と言っても
イエスは特別な術を行ったわけではない。
相手に向かい「あなたは癒された」と
当たり前の言葉を言っただけである。
続いてイエスは言う。
「あなたの信仰があなたを救ったのです」
「主なるあなたの神を信じなさい」
自身の信仰心を確認させ、
確信させるように仕向ける。
つまり、いつまでも人に頼らないで、
自立させるように促す。
ここが妖術、魔術使いと違う点である。
妖術使いは
「あなたが救われたのは、この私のおかげなのだ」
と恩着せがましく繰り返す。
徳の高い者が本当に救いの技を施す際は、
決してオーバーなジェスチャーなどしない。
神人と言われる者などは黙っている。
そこにただ「存在」しているだけで
見えない光を放ち闇を照破する。
その光は周囲を癒し、魂を救う。
神人が側にいるのは誰も気がつかない。
神人も自分の技を覚られないように気遣う。
しかし、皆はこう思う。
『何となく雰囲気がいい、
気が晴れた、調子が良くなった、
天候が好転した、厄難を免れた・・・』
何となく・・・と言った感じ。
誰もその者に対し感謝などしない。
イエスの場合、イエスの袖に触れただけで
救われた者が出たほどである。
こういった者たちは、根っから感謝されようと
夢にも思っていない。
このように、自分が信じる者の言葉や動作は、
本来自分がもつ治癒力や潜在能力に、
確かな情報として行き渡り、
時に奇跡を起こすことがある。
それは、すべて他の力が働きかけて
おこったものではなくて、
自分のもつ「信じる力〜信仰」が
自分を救ったのに過ぎない。
もちろん、そういった他の働きかけがあってこそ、
信じる力に勢いを得たことは事実であるが、
大半は自分が自分の問題を解決したのである。
自力と他力が組まれて初めて物事は成就するのだ。
他力を呼び込む強い自力をもつことが大切である。
「私はきっと救われる」そんな強い思いがあってこそ
その思いに他力が加勢するのである。
「あなたの信仰があなたを救ったのです」
この言葉は、そういうことを
イエスは言いたかったのである。
人は、最初は手習いで誰かに頼って
「信じる」ということを学習するのであるが、
徐々に向上していき、信じるという思いが
「確信」に変わったならば、次は誰かを介するのではなく
まっすぐに神とつながるよう次元をあげていくべきである。
目指すは「間接ではなく直接」につながる
ことである。
神からのご意思を、他人を介しての言葉や行動で
感知することを間接内流と言う。
その反対に、何も介せずに直接に受けることを
直接内流と言う。
直接内流の方法、これが鎮魂帰神である。
続く・・・