審神(さにわ)〜正邪の見分け (6)
劒では「劒以外に他力を求めてはならない」
と言う戒律がある。
劒は一霊四魂、三元、八力を顕現させる神器である。
気劒体の一致と言うは、神の全き霊、神の全き力、
神の全き体を意味する。
この劒の威徳を常に身に帯びることが
混迷の世を安く渡る強力なる護身の法と言ってよい。
さて、ここで劒ということについて
もう一度おさらいしてみよう。
劒は「水水火」であり、
水(体)と火(霊)を結ぶ神器なり。
幽なるものを顕なるものに変換する道具である。
先に言った『気劒体の一致』には順序あり。
1、気=まず呼吸が働く
2、劒=呼吸に合わせて木劒が動き、
3、体=木劒の流れに沿って肉体がついていく
また、劒は神名で言うところの、
神(かみ)にはあらず命(みこと)の働きである。
みことは、また「身のこと」であり、それは物であり、
肉体のことをさす。これ「水」なり。
神は火(霊)の身なり。
例えば、素盞鳴之大神と言わず、
素盞鳴之命と言うが如し。
「みこと」とは、物質世界である現界で
活躍しやすくするため、
隠身(かくれみ)なる神が御身も物質化して
現れた時の呼称である。
「かみ」は、霊界で活動するため、
霊的姿でおられ時の呼称である。
水水火と書いて「ツルギ」と読む〜これ命となる。
火火水と書いて「カガミ」と読む〜これ神となる。
かくのごとく、劒は、神が命として顕現されし時の
現界的活動力の顕現なのである。
稽古では、劒を使うという傲慢な気持ちを捨てて、
「劒に使っていただく」と言う謙虚な気持ちで
臨むことが『他力』を会得する心構えである。
そのためには、劒の動き(自転・公転)に合わせて、
その旋回に従って体がついていくようにする。
『日頃信仰篤き者には、必ず神が守ってくださる』
と言うが、武の道にある者には、
この意味が非常に理解できる。
つまり、劒の稽古を怠らぬ者は、
鏡の力である反射力がはたらき、
身と魂を護ってくれるということである。
劒と言う他力にすがる思いをもって
鍛錬しているがゆえである。
人にはそれぞれ役割がある。
劒の役割。
鏡の役割。
玉の役割。
しかし、これは個々に独立したものではない。
劒の中にも鏡と玉の力が加わり、
鏡の中にも劒と玉の力が加わり、
玉の中にも劒と鏡の力が加わっているのだ。
ただ、どの部分が最も
おびただしき比重をしめているかによるのである。
混迷の世となった今、
ちまたでは様々な術が飛び交っている。
それはテレビ、映画、インターネットなど
メディアを通して、妖術、魔術が知らず知らずに
大衆に仕掛けられている。
あなたは、テレビの中の贔屓にしている俳優に
自分を遷し、置き換えてはならない。
あなたは、あなたなのである。
誰かのイメージにとらわれず、
いつも自分を失わないようにすべきである。
自己の個性を他に遷してはならない。
神は個々にその人独特の個性(光)を
をお与えになっている。
その光を消してはならない。
あまりに自分と言うものを消去している者が多すぎる。
それ、すでに妖魔に魅入られているのである。
マスメディアに心奪われず、もっと自分を見つめる
静かな時間をもたねばならない。
武道の稽古は、ひたすら自己の呼吸、姿、力を
極限にまで見続けることに尽きる。
自分の心なのに、体なのになんで思うように
ならないのか・・・と悩む。
この悩みを持てる者は幸いである。
すでに自己を取り戻しつつある者である。
自己の可能性に気づきはじめている証拠である。
審神について、様々述べたが
まだうまく意を尽くせない。
かく言う私が最も自己を審神せねばならないことは
言うまでも無い。
過去において狼藉を尽くし、
不義を行った魂への爪あとはそう簡単には消えない。
否、その爪あとを悔悟の材料として直視し続ける…
それが私にとって審神の基準となる。
審神する技を学ぶ者は、自己の魂を常に審神し
自他を公平に見る眼を養うことではないかと思う。
本当に今の自分は正しきか、潔白か、誠実か、
人を妬んでいないか、恨んでいないか、
人を蔑み、見下していないか。
まず、何より今の自己の心身が健全であること。
「白紙の状態を保ち続ける」ことが大切である。
悪魔や妖術、魔術使いなどから人々を守るのが
私たち武道に携わるものの役割である。
聖言に「御魂の洗濯」と言う言葉がある。
いつも心身に汚れがつかぬよう洗濯し、
心を白紙の状態に戻し、
もって正邪を判断することである。
続く・・・