「礼の徹底(1)」〜身をもって世に示す技の極意
人心の荒廃が進み、道法礼節まったく廃れ、
魑魅魍魎の咆哮し、我が物顔に闊歩する
おぞましき世となったいま、
それに対し、なす術も無く、ただなされるがままに
天に運を身をゆだね、
いずこからか白馬にまたがって
救世主の現れる来るを心待ちにするばかりなるか。
しかし、すでに現れし救いの神は、
我々自らが立ち上がり、荒れ果て、歪んだる道を
直ぐに建て直す術を与えられていること、まことに有難し。
さて、他力を呼び込むは、
猛烈なる自力を必要とすることを思いなおせ。
自力、自力。
神はこれを待ち望む。
我々が、いつ自らの足で立ち上がり、
荒れ野の草を薙ぎ払うのかを神は待ち望む。
それに火をつけるのは誰なるぞ、と。
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調子、拍子、間というが、これ三田の活用が
いかなるかを表したものである。
調子は、左右の働きで胸式呼吸をもって上田で、
拍子は、上下の働きで腹式呼吸をもって下田で、
間は、前後の働きで胸腹両方の呼吸をもって
中田で行う。
こういったものは技にとって不可欠の要素であるが、
この要素が実は礼の作法にあるのである。
礼の作法、これは技の仕上がりの基準なのである。
『永い静寂の中の一瞬の閃き』というのか、
われわれは、その時を待ち、その時のために
心身をひたすら練っているのである。
和良久の技は、稽古場において剱を持って練り、
平素の生活において剱を持たず技を活用する。
礼のひとつもろくに出来ない者。
つまり、剱の技を知らぬ者と知る。
何を練っているのか。
何をなさんとしているのか。
その言葉遣い良しや?
その動き良しや?
その思い良しや?
何の道場に於いて振るう剱の技の未熟なること、
すぐその礼をなすにおいて相手に見破られるならむ。
無駄のない所作、息、心。
それ起居動作にすべて現わるるものなり。
同士よ、心せよ。
われも心する。
気迫をもって命がけで、命がけで。
続く・・・