「憧れの大日本武道宣揚会」(2)
大日本武道宣揚会は、JR播但線「竹田」駅
近くにある広大な屋敷に置かれた。
この屋敷は、土地の旧家である
酒造屋のものであったが、その本邸と、
6〜7棟の家屋敷を買い取ったもので、
米蔵、酒蔵が三棟あったが、
そこを整備して道場につくりかえられた。
米蔵が60畳、酒蔵が200畳で、60畳の方は、
全国から集まる短期稽古(3〜4ヶ月)の合宿所となった。
この道場の屋敷は、明治維新、平野国臣が同士とともに
切腹して果てた所で、町の人たちはここを
幽霊屋敷と呼ばれ言ていたという。
道場から見える標高353.7メートルの山。
その山頂に築かれている竹田城は、
豊臣秀吉が但馬攻め(天正5年)の後、普請させ、
別名を"虎臥城"とも呼ばれ、
国の史跡に指定されている。
大日本武道宣揚会発会式の時、
竹田の駅から武道宣揚会の旗を先頭に、
数百の会員の行列が勇壮に街中を行進した。
道場では、自給自足の生活を行った。
稽古の合間に農事を行い、会員たちが当番を割り振って、
炊事、洗濯、買い出し、掃除をした。
道場の食事は、玄米食が主であった。
稽古は、朝5時起床にはじまる、朝、昼、夜の三回行われ、
それには全国から修行希望者が参加のために
多数押し寄せた。
また、地方からの武道講習の出向依頼もあり、
北は北海道南は九州、そして遠く
朝鮮、台湾、満州などからも依頼が相次ぎ、
講師が不足するほど大盛況を極めた。
当時は、段位制度などもなく、導士、宣士、助士という
三段階を設け、その資格者が地方に派遣された。
道場では、武道稽古の他、各界の名士や軍人、
学者をはじめ大本の講師なども来訪して講演を行い、
まさに武道中心に文も練る文武両道を実践していた。
なにより王仁三郎師の宣伝よろしく、
政治家、軍幹部、公爵をはじめ、
大本地方機関などの援護もあって、
地方支部も筍のごとく全国に続々と発会発足。
武道宣揚会は、全国に何万という会員を有する
巨大組織になった。
しかし、この日本最大の武道組織も、
大本事件で活動が中絶。
その後、植芝盛平師が、
この時の人脈をもとに合気道を拡大。
現代に至る。
続く・・・・