歳を経るほどに輝きて
和良久は、子供には難しいですね・・・
そういわれます。
確かにそう思います。
子供は、生まれながらに心身が丸いので、
丸い稽古である和良久の技は
もしかしたら性に会わないのかも知れません。
丸いものは角いものを求め、
角いものは丸いものを求めるようです。
私たち大人は、いつの間にやら体はもとより、
動きも気持ちも固く、角ばってしまっています。
ですので、音楽にしろ、器にしろ、
衣服にしろ、人柄にしろ、
滑らかなもの、柔らかいもの、やさしいものなど、
丸いものを求めてやみません。
若いうちは、音楽もやたら音響のうるさいものや、
衣類も色の派手なもの、
景色も機械的な都会風なものを好んでいたものです。
しかし、いつしか、そういったものに疲れ、
感触のよいもの、安らぎあるもの、
つまり自然に直結したものを求めだします。
鋭角の世界から、螺旋の世界への移行です。
人は、この世に生を受けたとき、
螺旋の世界から出たばかりなので、
ころころと転がる大福餅のような可愛い存在、
つまり赤ちゃんでした。
しかし、ころころと転がるのを本能的にとめる
角ばったものを求めるところから始まり、
いつしか、その角ばったものが
自分の周囲に氾濫していることさえ忘れて、
鋭角の世界に浸ってしまいます。
このように「丸い存在」の子供が、
「角ばったもの」に惹かれるのは本能です。
スポーツで人を蹴散らす生き残りの術を楽しみ、
激しいロックミュージックの音に酔いしれ、
車の爆音とスピードに酔いしれ、
闘争本能のままに正義の名の下で
人と殴り合い、
相手の気持ちを無視した一方的な恋に燃える・・・
そういった角ばった鋭角な人生も、
思えば経なければならない過程なのかも知れません。
やがて「これではいけない」と悔悟し、
人との和合を推し進め、
互いに癒されるべき螺旋的環境を
構築していくのでしょう。
出来るなら、そういった自分勝手な過程を
少しでも通らなくてもよいような
道筋を教えてあげるのも、
その道を経た私たち大人の義務なのですが、
鋭角の世界に浸って夢中になっている間は
周囲の声などハエの飛ぶ音ぐらいにしか
聞こえないものです。
納得いくまでさせること、しかし
大やけどしないよう温かい眼で
根気良く見守ってあげることだと思います。
思えば、私も若い頃、
もしいまの和良久のような稽古があったとしても
きっと見向きもしなかったでしょう。
そして、つばを吐きながらこう言うでしょう。
「ふん、そんなもの何の役に立つんだ」と。
人を許し、理解することが「負け」と思い、
弱者とさげすんだあの若い日。
精神論が、弱犬の遠吠えに聞こえたものでした。
年寄りの言葉が、うるさく、
人の親切が、余計なお世話でした。
自分ひとりでこの世に生まれ、
一人で生きてきたように思ってきた
自分勝手な時代でした。
しかし、やがて知ります。
一人でいきてくことの限界を、恐るべき天の采配を。
その時、初めて自分の無力を覚り、
大地に伏せて号泣するのです。
なんて自分は愚かだったのか・・・と。
そして涙も枯れ果てて大地に倒れこみ、
天を仰いだときに光が差します。
その光を追いかけて新しい人生を模索し、
その求めに応じて次のステージを踏むのです。
物事とは、経るものを経て、初めてその愚かさと、
ありがたさを知るものなのかもしれません。
何でも自分の力でやってきたんだ・・・
そう豪語していたとき、
突然、何かにつまずいてこけてしまい、
痛くて自力で起き上がれない、
そんな時、誰かがそっと差し出してくれる
手のぬくもりの温かさを感じるのでしょう。
どうも「時」がこなければ
本当のことはわからないようです。
歳をとることは衰退ではなく、成熟し完成への道です。
赤子の時は「何も知らない」純粋無垢な時代でした。
しかし、老年期は「何でも知っている」
純粋無垢な時代なのです。
言霊で言えば「ス」で始まって
「ス」に帰るということです。
澄み切って生まれ、澄み切って死ぬ。
生まれたときは真水のように綺麗でした。
死ぬときも真水のように綺麗であるために
今日を汚れのない一日で終えねばなりません。
歳を重ねる度に、日々の生業(なりはい)が、
禊(みそぎ)でありたいと思います。
和良久の稽古は、
万人のための稽古として発表したのですが、
圧倒的に年齢の高い層に指示されていますのは、
以上のような理由からであると思われます。
過度期が過ぎて、
もう少し時代が螺旋的になったとき、
きっと子供たちも違和感なく和良久を稽古するでしょう。
いま、和良久は高齢の皆さんに指示されているのは
私としても本懐であり、非常に嬉しいことであります。
実際周囲を見渡しても、
子供たちや、若い方たちがやれる運動や遊び、
また良し悪しは別としまして、
稽古事なども数知れず存在します。
しかし、高齢の皆様が生涯楽しめ、
魂の向上が出来、しかも実生活に役立つような
本格的な稽古事(いにしえより伝えられた技)
というものがありません。
高齢者向けに作られたスポーツ?があるようですが、
若い方を真似て意地になって運動をされる様は、
せっかくいままで積み重ねられた輝くような年輪を
消し去っているようで寂しく思います。
歳を重ねただけ分、人は威厳が備わります。
凛とした静寂の中で洗練された
無駄のない武の技の身のこなしと、
凝縮された呼吸のあり方は、
まさしく威厳を感じます。
それは畏敬の念さえ覚えるものです。
年齢を経たからとて妥協してはならないと
思います。
その威厳を失っていただきたくありません。
この日本には、どこにも追従を許さない
日本特有の素晴らしい技があります。
それを守っていただきたいと思います。
その姿勢と意気を私たち若い者に
見せていただきたいと思います。
人は、肉体と魂の向上したいと言う気持ちは、
終生萎(な)えることはありません。
人は、向上を目指してやまないものです。
和良久は、今後高齢者の皆様のための
稽古事として十分その役割を果たしていくことでしょう。
和良久の技は、現界だけのものではなく、
死んで霊界に行ってもなお役立つ技です。
水火の技は無限世界のものです。
有限世界でしか通用しない技などを鍛錬しても
時間がもったいないと思います。
私の師は常々言っておられました。
「永遠に変わらないものだけに価値がある」と。
この「永遠に変わることのない」
和良久の螺旋技を習得し、
霊界でも一緒に楽しく稽古しませんか。
さて、私にはまたもう一つ楽しみがあります。
わが魂が肉体を離れたとき、
和良久の名づけ親である四代教主様のもとへ馳せ参じ、
現界で真剣に練ったこの技をお見せするということ、
これもいまからの楽しみの一つなのです。
続く・・・