特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座554


修行


技の習得する過程は、
例えばこのようなものである。

・・・ある若者が悟りを求めて山に篭った。

来る日も来る日も滝で身を清め、
神仏に祈り静かな山の中で瞑想にふけり、
苦節10年。

やがて心に光明を見出し、
悟りの境地に至ったと信じた。

さて、いまこそ世人のために
山を下りる時と確信し意気揚々として下山した。

さて、久々に里に帰ってみると
友人知人らに出くわした。
そして、彼らはその若者の神々しさに心打たれた。

その若者の無事に帰りしと、
変わりように感激した友人たちは
若者のために歓迎の宴をはった。

沢山の友人知人が駆けつけ若者を取り囲んで
若者の成長を祝った。

若者も久々の美味しいものとお酒の味、
また甘い友人たちの言葉に気も緩み、
徐々に修行で培った心構えが崩れてきた。

そして若者はいつの間にか、
山に篭る前の言動と変わらない自分に戻っていた。

周囲は、それに気づき落胆して皆帰っていった。

若者は、10年かかった修行も、
一瞬にして無に帰したことを大いに悔い、
再び山に向かった。

その後も、若者は何度もこのように
山を出たり入ったの繰り返しをすることになる。

そして、生涯世の中の役に立つ機会を
一度も得られず、空しく年老いて
修行生活を終え死んでいった。

誰も居ない山の中で一人でいるときは、
気高い気持ちになれる。
しかし、騒々しい下界に帰ったら
瞬時にして元に戻る。

こういったことを人は繰り返す。

一人で篭っての修行は勘違い多く、
自己満足に陥りやすい。

悟りは、遠い山の奥にあるのではなく、
すぐ目の周りの生活の中にこそ存在する。

一人で居ても、大勢居ても、
相手がいても居なくてもまったく変わらぬ
「思いと言葉と行い」ができなければ
何の意味も無い。

静寂であっても、喧騒であっても
変わらない不動の精神。

武道の稽古も同じことである。

和良久では、こういった過程を
2時間の稽古の中に短縮し再現する。

稽古で例えればこうである。

まず、技がきれいにきまるように
一人で一生懸命稽古する。(山に篭る)

しばらくすると、何度やっても皆
同じような軌道を描いて綺麗に技が決まりだす。
(心が安定する)

そうしたら、次に人を相手に組む稽古に入る。
(下山して人に出会う)

一人で行った動きと
同じ動きで対すればいいのであるが、
どうも一人でやった時のようにうまくいかない。(葛藤)

相手が居なくなって一人になったら上手に出来るのだが、
相手が目の前に立ったとたん気持ちがぐらつき、

まして相手が剱を打ってきたら
すっかり慌ててしまって綺麗な螺旋もどこへやら。
(元の自分に逆戻り)

ぐちゃぐちゃに軌道を描いて、
その場しのぎの安易な受け技に終始し、
それは技と呼べるものには程遠く
螺旋運動ならず鋭角運動の世界に陥ってしまう始末。

また反省し、一人で何度も軌道を描いて技を練る。
(悔悟し、再び山に入る)

そして、再び誰かと剱を組む、
今度は少し動けるようになったと喜ぶが、
またそれが崩れ反省する。

こうして、少しずつ一歩一歩向上への道を
登っていくのだ。

世間を捨てて、何も何年もかけて
山に入る必要など無い。

一人の人間が社会から消える・・・
それは逆に社会にとって大きな損失となり、
それは罪である。

自分の仕事通して、人との関係を学び、
その傍らで心鎮めて行を積むことに意義がある。

武道には長い歴史の中で培った
素晴らしい人間向上のノウハウが詰まっている。

先人たちが命がけで残した理念を元に
無駄無理のない動きを学ぶことが
最も確実で早道と言える。

一生を修行だけで終わる人生など
あまりにもったいないし、神様に申し訳ない。

心を研ぎ澄ますも、体を鍛えるも
すべては神を讃えるためであり、
現世を栄光あふれる世界に造りかえるためである。

修行して得た成果は世のため人のために
返すべきである。

吸う息あれば吐く息あり。
稽古したことを世に活かさずしてなんとしよう。


続く・・