苦悩の時期の記録 5
18年前の自戒のノートから・・・
ここにも絵がたくさん書いてあり
絵の解説多し。
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いま一番何をなすべきかを知れ。
わからぬ時は天に聞け(祈れ)、
そして突き進め。
「惟神(かんながら)となるために」
いま前に左右に分かれた道が二つある。
さて、いずれに進むべきか思案・・・。
まず神に祈る。
そして、心の赴くままに行くべき方向を決断す。
同時に神に「この先に曲事なきよう」と守護を頼み、
「自分がこの道を行くことによって、
それが神様の御心にかない、
御用に立たせていただくことができますよう」
と、よくお願いして潔く進む。
そういった手続きを経て進むとそれが惟神の道となる。
自分が神様の御用に立てる
もっとも適切なる道を歩ませたまえ。
どんな奴でも、すべて自分を
幸せに導いてくれるために関わった人と思い接せよ。
決して自分だけで問題を解決しようとせず、
まず神に祈り、守護神に頼み、守護霊に活動をいただく
ことが大事だ。
上に舞い上がった水火を重ねて打ち下ろす。
これ重の剱なり。
下に舞い降りた水火を重ねて打ち上げる。
これ軽の剱なり。
真に世に益をなす人物は、
天これをみそなわしたまいて、
その人物が活動するに必要なるものを
惜しみなく与えてくださる。
ゆえに真に徳あり、世にかけがえの無き人物は
一人貧しく生涯を終えることなし。
その人物の器相応のものしか手に入らぬ。
誰も行ったことの無い所を目指し、
誰も踏んだことの無い道を切り開け。
そうだ。前人未到の道を歩め。
身体の鍛錬が心に影響を与える。
指導者は常に心身を清め、己が行いを正しめ、
もって人を導くの任にあたらねばならぬ。
線をつなぐ。
右で受けた時、左はすでに返す動作を
している。
気負ってはならぬ。
どうせ人は必ず死ぬ。
あの世には何ももっていけぬ。
裸である。
裸になっても恥じぬものをこそ今のうちに培え。
技に前後上下左右があるように、
声にも前後上下左右がある。
前後ー声の伸びー直魂 ー進退
上下ー声の強さー勇魂・親魂 ーたて
左右ー声の広がりー愛魂・智魂ーよこ
以上が言霊の響き。
よけいなこと(必要以上のこと)を心配しない。
とにかく礼儀知らずの輩には腹が立つ。
何が○○の人間だ。
人を越えて神もないもんだ。
神の道に進む前に人の道を知れ。
「鳴門の渦」
天の呼くイキ
地の吸うイキ
速秋津比売神
吸い込み
天の呼吸
「竜巻」
天の吸うイキ
地の呼くイキ
気吹戸主神
吸い上げる
旋回力の凄まじさとは、上記の二例
をみても分かる。
これにより技を見つめる。
四方八方、どこから来ても同じこと。
すべて弾き飛ばされ、吸い込まれる。
鳴り鳴りて しぶきを上げて渦巻きぬ
これぞ大地の息吹なりける
竜神の 躍動せしを垣間見る
鳴門の渦は大和の誇りぞ
富士の火と 鳴門の水が
結ばれて この地の上が安らかなるも
鳴り響き 岩戸を開く時きぬと
さげびたまいし 竜宮の神
瀬織津比売神 直 前後
速秋津比売神 呼
旋 左右 横
気吹戸主神 吸
速左須良比売神 上下 強 たて
おのが次元が高いとか低いとか自分勝手に
判断している間はだめである。
高い次元にいる者にとっては次元の高低など
思いもせぬことである。
とにかく人を見下すようならば、まだまだ低い
次元に住すると心得ねばならぬ。
パンチを打つのに、当ったとき「パチン」とか、
大きい音のするのは効いていない。
当たった際、音の無い、または音はあっても
鈍い音のするのは効いている。
相手の内部にまでしっか力が抜けているので
ある。力が浸透していると音はしない。
音の大きいのは表面を叩いているから音が
するのである。
このように言葉においても、人を叱るとき
バシッと表面を叩くがごときにしかるほうが良い。
一見大げさだが、表面の痛さで済む。
しかし、声を落として、落ち着き払って、
しつこく言い聞かせる陰気な叱り方は、
相手の心に深く食い込みなかなか立ち直れない。
人の心にも四季がある。
だから強くなる。向上する。
自分にとって無駄と思えることでも、
人にとってはとても有益なことさえある。
時に試練を与えられるのも
神のご守護の一環である。
山あり、谷あり・・・若いうちはできる限り
いろいろの道を歩いてみること、自分の足で。
武道稽古
春 子供には体育的稽古
夏 青年には格闘的稽古
秋 壮年には保険的稽古
冬 老年には信仰的稽古
子供は、直線的なる、前後が理解されやすく
青年は、強くなる、上下が理解されやすく
壮年は、柔らかなる、左右が理解されやすい。
これ初級・中級・上級と分けても同じである。
稽古のあり方
○少年期ー体育
単純な動きを合わせた直線的な技や型稽古、
遊び心のある体力をつける運動
○青年期ー技術
特に強さを追求する。
剛 応用組手的なもの
大技をよく使う
筋力を強くする専門的な体力養成
○壮年期ー技
心に影響ある動き
約束組手〜柔らかい動きのあるもの
逆技、技の流れをつかむ
最小限技を使うに必要な筋力養成
普段は神を敬し、あつく信仰している者が
時に神に対し不服をもらす。
その者、決して心から神を
愚弄しているつもりはないが、
うまくいかないときには親にいい上げするようなものだ。
こんなとき神は罰を与えしか?
いやいや、どこの世界に
わが子のいいあげに罰を加えるや。
未完成品なる我々の世迷いごととして
「しかたないなあ」と苦笑される。
ちょっと、何か不平不満を言ったからとて
決してその人の本心からではないだろう。
また人に災いがふりかかったからとて、
それみたことか・・・言霊が良くないからだとか、
それみよがしに他を非難するのは良くない。
神は表面層から出た言葉など相手にされぬ。
心の奥底の「霊からにじみ出る」言葉こそ言霊である。
その言霊のみ神の耳に入るのだ。
神は、言葉の奥にある人の心をご覧になられ、
行動の奥に潜める真実を見極められる方である。
何回ひっくり返されようとも、神にぶつかっていきたい。
ただ居る・・・だけの人間にはなりたくない。
ここにやってきただけのことはやっていきたい。
当身
間をしめ、ウに入る。
体は入らなくてもイキを入れる。
体が飛んでいく。
イキを入れ、手足が着いていく。
仕切りなおしなど武道にあらず。
間は一度にしめるべし。
まず水火を打って、相手の動きをとめたのち
自分のやりたい技を行使する。
人の世は言葉だけではだめ。
しかし言葉がなくてはならない。
宗教は感じるものであり、無形のものに
対する愛着である。
決して学問にあらず。
それはわかるものにあらず、ただただ信じるものである。
神の道を学問としはじめた瞬間に
神は分からぬものとなる。
素直な心で、ただ無心に手を合わせて祈る。
そんな姿こそ尊く、なにより大切なのである。
求めるから光がさし熱が生じる。
それは例えば、わが心レンズのようなもの。
祈るというは、太陽の光を集める行為だ。
無理をしなければ疲れない。
余計なことをしなければ事は流れる。
しかし、何が無理で、何が余計なことかを知るのは
唯一体験を通してでしか知ることができない。
何かにつまずいてこけ、怪我をしてればこそ、
注意する能力も出る。
こけたことのない人間が大きくなってこけたら
大怪我をするに違いない。
子供の時にしっかりこけて膝をすりむいておけ。
人は子供が産まれるから「親」になれる。
弟子が出来れば師となる。
その時に自覚が芽生える。
それでいい。
子に鍛えられて親は親らしくなり、
弟子に鍛えられて師は師らしくなる。
子が成長すれば親が成長し、
親が成長すれば子も成長する。
この仕組み、ありがたいことだ。
結局、人は技の素晴らしさについていくのではない。
その心に従ってくるのである。
体技についてくるのは浅い人。
心技についてくるのは深い人。
しかし、体技を経ての心技である。
体技なくして心技なし。
人を悪く言うのは自己防衛本能であるらしい。
人を見下すことによって自己の株をあげようと
する。いやらしいことだ。
人生楽しいことばかりなのに、苦しくしているのは
人からではない、自分からである。
違うか?
眼を開ければ明るいのに、
眼を閉じてるから暗いんだ。
観る鍛錬
体の眼で観るーものをみるー体ー人をみる
心の眼で観るー心をみるー霊ー神をみる
武道
体の鍛錬ー剱、身体をみる
心の眼ーイキ(呼吸、気)をみる
光を前に受け、闇に背に受ける人生を選択せよ。
人は前に向き、前進するように形づくられている。
人は自分を縛るもの(抑制するもの)によって強くなり
それをゆるめてくれるものによって伸びてくる。
伸縮のある指導が望まれる。
怒っていたって何の解決にもならん。
排他的行為は井の中の蛙と同じ。
神(天)より与えれ、その恩恵を人(地)に施す。
人を天国へ導くには、まず自分が天国へ入らねば
ならない。
天国を知らない者が天国のことを話したとて
誰が耳を貸すものか。
与えられることより、与えること。
与える→人にとって有益となること。
受けたら返す。
吸ったら吐く。
与えられたら与える。
このように旋回する人の世。
与えることは与えられることとなる。
明日は今日くらい明るい。
ちょっとしたことで心変わりするのはよくないこと
ではあるが、ちょっとしたきっかけで良い方へ
向かうこともある。
向上への「ちょっと」したことであれば、
どんどん心変わりすればいい。
しかし、決して他人に迷惑をかけるな。
おのが心に横行闊歩する副守護神を改心させねば、
身体ともに神に捧げての活動などできない。
時々刻々この副守との問答、そして戦いである。
「みたまみがき」
み ー身体 物質欲 〜副守護神
たま ー霊魂 精神性 〜正守護神
以上から、「み」を欠いて「たま」を残すこと。
物質的欲求を鎮めること。
要約すれば、副守護神を往生させ霊主体従に
なることである。
強い、弱いは心の問題。
真の強さは心よりくる。
それに体が従う、従わぬは問題ではない。
まったく良きことなら体は従うものなり。
心に反することは体もついてこぬ。
言い方一つで争いになる。
同じ言葉でもそこに良き、悪しきの心が
注入されることによって、
相手への伝わり方に天地の差が生じる。
言霊の活用如何によって天国も地獄も生じるのだ。
人にはそれぞれ「役」というものが
与えられて活動している。
それにあれこれと非難するのは
おせっかいというものだ。
皆自分の役柄に徹しさえすればいいものを。
良い事は考え、悪いことは考えぬ。
なぜなら思考は現実化するからだ。
怖いものだ。
上をみたらきりが無く。
下をみてもきりが無い。
ほどほどこそよし。
上と下が見れるいまが丁度よいことを感謝せよ。
世に対し、人に対し、何もなさずに霊界に帰るのは
恥ずかしくてならぬ・・・と知るべきだ。
教主様から聞こえてきそうな言葉
「何も心配せんでええ。
神様にしっかりお願いしてがんばりなよ。
神様がきっとよいようにしてくれるでな・・・」
与えるを第一として活動すべし。
アホになるための修行である。
続く・・・