新たな時代へ岩戸開く光に
武道「和良久」代表 前田 比良聖氏
いかにして相手を活かすか。戦わないための武道和良久(ワラク)は和合精神に基づく。新日本空手道連盟「正道会館」の総本部師範をつとめた前田比良聖(ヒラマサ)氏は、相手を倒すためだけに鍛え抜いた拳を剱(ツルギ)に握りかえ、戦いの矛をおさめた。剣聖・佐々木小次郎の木剱に導かれながら。燕返しを生んだ螺旋運動や大本に伝わった言霊学を手がかりに苦闘すること十七年。和良久によって復活した神代の武道は、破邪顕正の剱が繰り出す鎮魂帰神の神業だった。いま「武蔵」型武道精神に象徴される利己主義の闇が世界を覆う。和合して共に創り出す小次郎の剱こそが、新たな時代へ岩戸を開く光となるであろう。
いつから武道を。
前田 昭和四十二年、十歳の時。そのうち、遠慮なく相手にぶつける極真会館に惹かれ、大山倍達館長のいる東京まで通った。大山館長から指示され、十七歳だった私は初めて関西に極真会館の道場をつくった。
芦原英幸氏とは。
前田 極真の中で私が目で見て一番力があると思った四国の芦原先生に、高校卒業後すぐ内弟子になった。
芦原氏と言えば、ケンカ空手の異名も。
前田 芦原先生は大山館長の空手と違い円運動を使い、合気道的な要素があった。決してケンカ空手などではなかった。私は内弟子の最後の生き残り。俺が居ない時は前田に聞け、と芦原先生から言って頂いた。その後、極真を辞めて、正道会館の立ち上げに関わった(昭和五十五年)。
アメリカに武者修行に渡ったのもその頃。
前田 アメリカで大島(つとむ)という空手の先生と出会った。木の棒のようなものを持っておられた。ほしいと思ったその木剱が、私の運命を変える導きとなった。
京都の南禅寺にも居たとか。
前田 正道会館の第一回トーナメント(昭和五十八年開催)に出場するため帰国し、南禅寺慈氏院にお世話になった。裏山で滝に打たれたり、坐禅を組んだり、山に籠もったり。そうするうち別の世界が見えてきて、戦う気が薄れていった。
それでも出場を。
前田 一つのかけをしようと思った。私はただ立っています、攻撃は好んでしません、どうぞ私を動かしてください、と神仏に手を合わせた。優勝できたなら空手の世界に残ります、負けたら世界の役に立つことをさせてほしい、と祈った。
試合中は。
前田 道着に縫いつけてもらった慈氏院のお守りを握りながら構えるだけだった。すると自然に体が動き相手が転んでいった。相手をけがさせない、自分もけがしない、ことだけを心がけた。和良久のコンセプト 「人を傷つけず、人に傷つけられず。人もよく、吾もよし」につながった。
結果は。
前田 勝ちたいと一度も思わず決勝戦までいった。決勝戦は判定負け。相手は私が教えた後輩で踏ん切りがついた。アメリカに渡ることにして、日本中の神社仏閣へ行き拝み倒した。ある日、大阪の書店で植芝盛平先生(合気道開祖)の本を何げなく手にとり、大本の存在を初めて知った。
それで兵庫県の竹田町に向かったと。
前田 かつて大本の外郭団体で一大勢力であった大日本武道宣揚会が今もあると勘違いして、列車に飛び乗った。その途中、綾部で降りてしまい、大本本部に初めて足を踏み入れた。
奥山忠男氏との出会いはそこで。
前田 亀岡の天恩郷で道場修行をさせてもらった後、鳳雛館に案内された。木を削っている奥山先生がいた。木はかつてアメリカで見た同じ形になった。大島先生は奥山先生の早稲田大学の後輩で、かつて見た木剱は奥山先生が贈ったものだったことを知らされた。木剱の真っ直ぐさと雰囲気、それだけで空手を捨て奥山先生と稽古する決意ができた。
その木剱は佐々木小次郎から来ていると。
前田 京都の百貨店に出ていたものを奥山先生が見つけ、出口京太郎先生が手に入れられた。木剱には「舟島(巌流島)より略奪す」と記され、刀傷が多くある。流布されている史実とは逆に小次郎は真剣でなく、木剱を使った。木剱の長さからすると小次郎は身長が一メートル八十センチぐらい。幕府方が宮本武蔵の名前を利用して大勢で七十歳すぎの小次郎をだまし討ちした。それはあらゆる面から説明できる。小次郎は古事記の世界に見いだすことができる神々の武道の継承者だった。
大本は闇に葬られた歴史の真実を元にただすという役目を担うことが多いようだが、奥山氏の武道もその流れか。
前田 大本からは植芝先生の合気道、井上鑑昭先生の親英体道、奥山先生の言霊ツルギという武道が歴代発生した。奥山先生は言霊・霊学から理念を組み立てられた。私が出会った頃は小次郎の木剱など材料が一気に揃い、形にする模索の時期だった。奥山先生のやり方は、自分で工夫をなるべく加えない。言霊や霊学の資料は天恩郷に揃っていたので、私たちは一々裏付けを取りながら言霊に基づく剱による日本の根元の武道を求めた。
続いて和良久も大本から発生した。
前田 簡単にはいかなかった。奥山先生が退職され、霊学や言霊学を理解し難解な木剱の動きに組み立てていくなんて余程の変わり者のすることだ(笑い)。独り取り残され、何のための武道だったのかと泣いたこともあった。自分の思いこみではないかとさえ考えたりした。気づくと、十数年が経っていた。それでも心では確信するものがあったので、無駄にしたくなかった。
何が転機に。
前田 出口聖子四代教主さまとの出会い。四代さまの内侍室に引っ張って下さった。四代さまは武道をご存じないのに、私の武道に欠けていた部分をすべて補って頂いた。それまで私の武道は体主霊従で、術の方が先行していた。
霊主体従でないといけないと。
前田 四代さまにお仕えしながら霊と体のバランスが取れていった。私のことを「手力男の神さまや」と言われたことが胸に響いた。そうなりなさい、という意味だと受け取らせて頂いた。手力男の神さまが天の岩戸を開かれたように、暗がりの世に光を差し込むようなことがしたいと思うようになった。四代さまは私にとって武道の最後の師。和良久の名前もつけて下さった。四代さまが繰り返し言われたのが和合。その目で一つ一つの技を洗い直すと、明確で理想的な動きになった。
だから和良久は戦わない武道だと。
前田 古事記の国生み神事でも、天の沼矛は創造するためのもの。神様が天の沼矛で「シオ コオロコオロ」と螺旋運動を起こす。和良久の基本でもある螺旋運動は、悪いものを飛ばして純粋無垢なものを残す働きがある。武道の起こりは破壊でなく創造。螺旋運動は求心力と遠心力で、大きくはブラックホールとホワイトホールのように宇宙の運行に則っている。
武道とスポーツは違う。
前田 全く違う。スポーツは外から内に鍛える。武道は内から外に鍛え、腰を練ることで丹田が活性化され中心が決まり、神性が生まれる。スポーツは獣性。自らの体に絶対中立の天の御柱を立て、心の歪みを正せば、人を傷つけることなどできない。大和とは絶対的な和合精神で、日本の世界に果たすべき大きな役割だ。今の世はまさにどんな手を使っても勝てばいいという武蔵の時代。和合精神に基づく小次郎のツルギを復活させる意義がそこにある。