人の世には、当たり前のことですが、「時」があります。
「タイム」または「チャンス」と言ってもいいのですが、
日本の言う「時」と言うのは、ちょっと深いものがあります。
精神的な時と物質的な時。
時間は楽しいときは短く感じます。
逆に苦しいときはとてつもなく長く感じます。
心のつくる時です。
やがて老い、やがて朽ちる。
物質的な時です。
神は春夏秋冬を違いなく巡らせ、一日のサイクルを見ても
朝、昼、晩を見事に順序立てています。
人の出会いも時があり、結ばれるとき、そして別れる時も。
成功する時、失敗する時。
これらは人が決して意識的(自力のみにたよって)に設けることの
出来るものではありません。
どうも時の多くは「他力の加わることを待つ」と言うことのようです。
大いなる他力が加わるためには、大いなる自力を
培っておく必要があります。
その時(他力)が来たら、
それを飲み込む準備がいつでも出来ていなくてはなりません。
それが稽古鍛練というものでしょう。
それ(時)を飲み込み、かつ増幅させる器(うつわ)がないと、
せっかく目前にその時が来ていても合流することが出来ません。
「準備をいたされよ。足もとから鳥がたつぞよ」
これは大本開祖の神諭の1節です。
開祖はこうも記しています。
「神も時節にはかなわぬぞよ」
それと聖書の箴言でしたか、
それにも「すべてには時がある」と記されています。
神様も時を大切にされておられるようです。
和良久の「75剱」の稽古は、この大切な「時」を「捕らえ」「飲み込み」
「増幅させ」「解き放ち」そして「与える」稽古です。
立ち会った相手を「他力」と考えます。
その相手がこちらに加えてくれる力の、
その「最高の部分」を受け取るのです。
ただ単に「相手が打ってくるから受ける」といった既成武道の
やっているようなそんな偏狭な技の交換をやるのであれば、
特に和良久の存在は必要ありません。
私たちは「相手が打ってくる」つまり「攻撃を仕掛けてくる」のではなく
「相手がこちらの力を増幅させに来てくれる」と考えます。
その相手、つまり他力が「時」であり、それを受け取るのです。
そのために相手が引き込まれるような猛烈な螺旋を描きます。
相手を逆に自分に呼び寄せるのです。
その時を意識的に作るのです。
これが自力です。
相手の打つ力が、最大限の状態でこちらに加わるように
「時」を合わせます。
「ここだ!」と言うところ。
それは一瞬です。それはゼロコンマの世界です。
相手の螺旋と、こちらの螺旋がジャストタイミングで円滑に合流し、
一つの渦になった時、その時、驚くばかりの力が発生します。
これこそ息(呼吸)の重なった時であり、
これこそ「真空放電」の状態、そして「雷撃電飛」の力の発生です。
この力を受け取れる状態こそ「鎮魂」です。
その時を待つ、しかしじっと待つのではなく大いなる時がきて、
大いなる力が加わるために不足のない状態をつくる。
これも鎮魂の目的です。
大いなる力が吾に加わり、吾は吾を離れて、大いなる我と共になり、
元の我の姿となりて元の力を世に放つ。
まあ、こんなことではないかと思います。
続く…