「和良久って何だ?」 (14)
先生は、戦いはよくないと言いますが、
空手をしていた当時の仲間はいまでも仲良くやっています。
それは殴り合っていた間柄だからかも知れないと思っています。
しかし、和良久になった今は、昔のような気さくな友人が出来ません。
どうしたら良いでしょうか?
・・・そう、問われました。
空手時代は、確かにお互いに殴り合い、
多くのスキンシップがありました。
これは空手や格闘技に限らず、
他のスポーツ全般においても言えることでしょう。
ある意味ほほえましいことです。
しかし、こういった戦う集団に共通したものが、
「おらが村」意識なのではないでしょうか。
同じ派閥に属し、同じ派閥の中の先輩後輩関係では、
ことのほか仲が良いのですが、それ以外の派に属する者は、
ことごとくこれを「排除」する特性をもっています。
弱肉強食の世界において築かれる上下、および横のつながりは
異常なほど固い絆が出来ます。戦友だからです。
これは「戦う」という意識の中で芽生える、
自分の立場を守るための自己防衛本能なのです。
戦いにおいては
一人より大勢を仲間に引き込むほうに利が増すことは明白です。
しかし、それはあくまでも自己の利を守らんとする
「われよし」に他なりません。
その友もひとたび向かい合ったなら、敵となり、
排除をし始めます。
私たちは思います。
同類の者が集まって、傷口を癒すのもいいでしょうが、
これは心に大きな垣根を作っていると思います。
小さな枠の中で他を批判するグループを形成する。
それはそれで楽しいのかもしれませんが、しかし、
もっと年齢、性別、人種を飛び越えた方たちと
輪を広げることのほうが、もっと楽しいのではないでしょうか?
それには人を頂点とした団体に加われないこと、
つまりある特定の人を目指すのではなく、
神を認めて神とともにある生活に入ることです。
そして同時に戦いをやめることです。
戦いを目的とした技を練らないこと、
戦いを煽る思想を学ばないことです。
そうするとまったく垣根が取り払われて、
心からの信頼関係が生まれます。
人種、国境、年齢、性別、思想を越えて集まることが出来ます。
戦いをはずすことにより、小さな集まりから大きな集まり、
それも皆が和合の心を求めて集う
素晴らしい世界が現出するのではないでしょうか?
小さなおらが村にいて、他をののしることをやめ、
垣根を取り払って大きく世界に目を向け、
自分の知らない人たちと手をつなごうではありませんか。
殴り合って、ぶつかり合って何かを得るんだという
野生的方法を選ばず、私たちは神の子、神の民なのですから、
労わりあい、助け合って築く方が
得るものも多いのではないでしょうか?
戦友ではなく、道友を求めましょう。
それはきっと一生の友となるでしょう。
続く・・・