「ハナ 〜素盞鳴之命のお働き」
『左の御目を洗いたまう時に
なりませる神の御名は天照大御神。
次に、右の御目を洗いたまう時に
なりませる神の御名は月読命。
次に、御鼻を洗いたまう時になりませる神の
御名は建速須佐之男命・・・』(古事記より)
左の眼は、右脳に通じ、霊的感受性を、
右の眼は、左脳に通じ、体的感受性を司っている。
天照大御神は、火(陽)の活動力であり、劒の刃。
月読命は、水(陰)の活動力で、劒の棟に位置する。
そして、鼻から生まれられた素盞鳴は、端、
つまり先端であり、劒の切っ先である。
よって、劒はこの三神の活動を
具体的に現すものである。
素盞鳴之命の「はな」というのは、
先駆けを成すものの意でもある。
これは道なき道を切り開く先駆者ということである。
また、はなは、花であり、それは歌である。
命は「八雲立つ 出雲八重垣 ・・・」と、
和歌の道を開かれた。
また、はなは、刃納である。
命が、ヤマタノオロチを退治されし時、
その中の尾から取り出したのが「都牟刈之太刀」
(つむがりのたち)。
その宝剣を、我が物とせず姉神天照を立てて献上され、
自分は相変わらず陰に控えられた。
陽を一層天地に照らすための陰(支え)になる・・・
つまり一心に主に仕え、主を立て、
そのため自分はあくまで従に徹する。
これ、武の道にある者の心得なければならない
大事なことである。
さて、ツムガリとは、至厳至利の威力を保って、
万有の諸相を厳正に判定し、解剖し、
顕示するの儀である。
太刀を天照に献上するということは、
実に意義深いことである。
刃をおさめる・・・刃(ヤイバ)を治めるとは、
凶刃を懲らすことであり、破邪顕正であり、
物質的欲望を戒めるの儀である。
この太刀を「草薙之劒」(クサナギノツルギ)と言う。
クサナギとは、『地上に勃発するクサグサの事件の
一切を薙ぎ払い、すべての解決を告げる威力』を言う。
これも「はな」の働き、その性からくるものである。
そして、鼻は呼吸の出入を司る。
また、鼻は、不浄の空気を吸い込みしが即浄化させ、
体内にばい菌が入らぬようにする
働きをなすところである。
これは、外敵の侵入を防ぎ、
内の活動力を円滑になすということである。
鼻とは、生死を司る天地呼吸の根本である。
以上により、素盞鳴之命の働きを推し量るに、
素盞鳴は、一層天照大御神の光を
あまねく地上に輝かせるため、己は常に陰に回って
光を妨げることのないよう気を払い、
光を妨げる者現れしならば、それを速やかに退ける
警護の任をなす。それに徹しておられる。
表に立たすべき方を立たせ、
その為に自分は敷石となる役目こそ
素盞鳴之命のお働きなのである。
世の敷石となるということは、
言葉で言えば簡単であるが、
これはよほど大変なことである。
お上からも、世人から評価されず、
社会から優遇されず、ひたすら耐え忍ぶ強靭な肉体と
精神力が必要となってくる。
大木の根のように、
大雨大風に耐え抜く強さを持つ者。
これは、よほどの大馬鹿者か、
卓越した者しか出来ない役目である。
そうなると、陰で支えるための、的確な技と、
繊細な心を持ち合わせるための稽古鍛錬を
常に積まねばならない。
そういった「見えぬ者たち」によって、
この三千世界が支えられていることを
忘れてはならない。
皆が目立ちたがり、手柄を立てたがるような昨今。
この敷石たる、陰の御用となる者が、
塩をかけられたナメクジのよう急速に消えつつある。
天ばかり見つめ、地をかえりみない人種が増えること、
これがバランスの崩壊となり、世の乱れの基である。
「陰からの守護」と言われる
「うしとらの金神」様の御心を一体誰が知ろうか。
劒の働きを見直し、劒をとって
まことの武を練っていく過程において、
その御心を骨の髄まで染み込んでいく感がする。
「いまやらねば・・・」
どこからともなくその言葉が聞こえ、
猛烈な使命感とともに、滝のように涙が溢れ、
覚悟を決めて、そして、誰に言われるでもなく
自らそっと陰にまわって「支える側」への候補者となる。
それを、心から誇りに思える。
これこそ、本当の「格好よさというものだ」と
喜びに満ち溢れる。
人は、社会は評価しないであろう。
しかし、こうしてそっと見えないところに行く者を
見えないところにおられる神は
高く厚く評価してくださる。
それだけで十分ではないか。
これこそ日本武道の本義ではなかろうか。
素盞鳴の神の働きを直に実行せしめ、
日本武道の本儀を貫く和良久というものに
出会ったことを私はとても誇りに思う。
そして、この時期に生まれてきてよかったと
無常の歓びを感ずるものである。
続く・・・