「大本言霊学」(1)
時節は風雲急を告げ、天災人災は毎日のように
わが神国にも襲い来たり、悪魔の手が
吾が右腕を鷲掴みにつかみ、火傷の如き
傷跡を残す恐ろしさ。
また、夜半遅く車にて大阪の稽古より帰宅途中、
穴太の里にかかりし時、突然眼前に映る世紀末の惨劇。
道は裂け、山は崩れ、建物は崩壊し、人々が
地獄の如き阿鼻叫喚の中でうろたえる様。
ああ、ことに幼き子供らが血にまみれる様は
わが心臓の張り裂ける思いなり。
車中、涙が滝のように溢れ、まるで子供のように
「神様ごめんなさい、ごめんなさい」
と謂う外にわが成す術を知らず。
帰宅する途端、体調一気に衰え、床に伏すや、
また悪夢にうなされる。
ひたすら「ふるべゆら、ふるべゆら」と唱える
折りしも、言霊の水火の廻り廻る様が
うつつの中で繰り広げられ、徐々に意識が戻りぬ。
目前には、大本四代教主のご遺影が笑う。
枕辺に置きし、言霊の書物の一冊を紐解き眼をやれば、
腹の底より勇気が湧き出でぬ。
いわゆる「床縛り」となって身動き出来ぬ状態を
脱するも、その縛られし中でわれ思うよう。
そろそろ和良久の技のベースとなった
言霊の教理につき真剣に述べなくてはならない
時期にきたのか、と。
少々、難解なこと多々あるも、
関心ある諸氏には眼を通されたい。
一気に出すも、息苦しさを覚える向きもあろうと存知、
何回かに分けて出すこととする。
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出口王仁三郎聖師は、大正七年二月号に発行された機関誌
「神霊界」にて、言霊について次のように述べられた。
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「神は万物の霊にして言霊なり、道(ことば)なり、
宇宙に充ち満つるをもってミチ(道)とも謂う。
人は天地経綸の司宰者として生を享けたるものなり。
故に言霊の妙用を解して、これを実地に応用する時は、
天地万物を自由自在に動かすことを得べく、
地震、風雨、雷電を駆使する如きは、
実にやすやすたる業なり」
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そして、これが記述された同年、大正七年10月下旬に
綾部の金竜海の辺に、言霊の神威発揚のため「言霊閣」
別名「黄金閣」建設を着工す。
大正8年11月発行の神霊界誌に、以下のように述べる。
「いよいよ言霊閣の落成とともに、
神軍の活動は益々激烈の度を加え来た。
神軍の活動に後れないよう、
言霊戦の大活動を始めねばならぬ」
また、言霊閣の傍らに黄金の水瀬を漂わせる
金竜海と言われる池には、言霊の水火の形を表す
75声の「水茎文字」を映し出された。
金竜海の中洲には、五大父音「アオウエイ」を示す
五大州の島が造形された。
大正8年9月の神霊界では、次のように記す。
『杉庵思軒(山口志道)の「水穂伝」に現れた言霊学は、
水火の体を説き、中村孝道の「ますみの鏡」は、
水火の用を説いたものでありますから、
「水穂伝」の所説を大本言霊学と称し、
ますみの鏡の所説を日本言霊学と称して、
私は体用両面に区別しました。
ただし私が永年研究の結果、双方共実地において、
応用するに当たり、よほど不備の点を感じましたから、
20余年間、学理の如何に関せず、
実用に適する説を採って来たのであります。
如何となれば、人間の説を根拠として立てた教理と、
神界直授の真理とは、凡ての点において、
深遠浅近の区別があるからであります』
言霊は、空想の世界や、オカルト的事象にあらず。
また、机上の空論で終えてはならない。
聖師の謂うよう、この「実用に適する」ということが
大事なのである。
和良久は、出口聖師の意思を尊び、この「言霊の実用」
という点を重視し、頭で考えることなく、腹で考え、
腰を据えて事に当たっていく覚悟をもって組まれし技なり。
このように言霊の幸はいを復活させようとされた
深きご意思を尊び、師の大成されし言霊学、則ち、
和良久の元なる理念を前田のつたない筆をもって
ここに発表する。
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まずは、手元にある書き写しの古書、出口王仁三郎著
「大本言霊学」の中より、これはと思わるるところ
を抜粋す。
ただし、往時の書き写しの書のため、文字、言い回しが
不明瞭なるもの多く、前田が独断にて当て字、
また今風に解読せし所も多くあることを了解せられたし。
これより記する所、和良久の稽古人諸氏の道の灯明と
なることを心から念じるものなり。
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序
青海原 千尋の底に瑞の宝珠ありと言う。
百舟千舟許藝行けども伊操り得ず、
百網千網引曳き回せども伊収まり得ず。
世の人の「珠を得し」と言うを見れば、各も各も
海魚の玉、奥津藻の珠にぞありける。
茲に、大本の教えに日夜仕え奉れる出口の王仁、
大神の尊き深き御諭しのまにまに、
其の玉の在処を考え済し、
金龍の海の底いも知れぬ深きを探り、
弥仙の神山の高き尋ね、
水は元伊勢、火は出雲なる玉水の玉なす光に照らされて、
かたじけなくも黄金の珠と黄金の釜とを拾い得たりぬ。
かくて、この神宝を月日さまねく重々に磨き洗いて、
まったく布斗麻璽の御霊なることを覚りければ、
大神の御命のまにまにその形を図し、
その言霊の法則を述べて、一つの巻となし、
畏くも海神 玉依姫命より開祖の神の御手を通して
国常立大神に奉りたまいし神宝にして、
遠き神代の古より天降りましけるが、
月うつり、星変りて、千尋の海底に落沈しけるを
龍宮の神の日の出の神と現れたまはむとして、
王仁に黄金の真玉を磨かせ、
黄金の釜を洗わせたまいしを、熟熟考うるに、
正しくその玉は水火満、水火干の玉にして、
天地万物の息を治め、また黄金の釜は霊魂の餌を
沸かし煮るべきやの神宝にぞありける。
王仁、今より後生、命の続かむ限り、
世の為、人の為、この真玉のいや光に光り、
いや照りに照り渡らいて、
天津日の輝く如く、この真釜のいや
沸湯(たぎり)に沸湯り、いや鳴りに鳴り、
天の下、四方の国々遣る隈なく、
鳴雷の天津御空に轟く如く、清く明るく広く美しく
高く布き施してむと命毛のつたなき筆を振るい、
黄金の山の山吹の花も実もある
目出度き聖代の神宝と、勇み喜び誌し奉る。
大本教の言霊学 あなかしこ
大正四年一月二十日 雪の窓の下にて
出口王仁三郎誌
続く・・・