特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座352


「大本言霊学」(2)


最近の和良久の稽古にて、
よく私の言う布斗麻璽の御霊とは?

これは大本言霊学においても
本論冒頭に登場する言霊の学びの道においても
非常に重要な地位を占めるものである。

布斗麻璽の御霊は、
一名「火凝霊」(かごたま)とも呼ばれる。

これは宇宙創造ー天地剖判ー修理固成ー生成化育の様子を、
平易な図で示したものであると私は端的に解する。

宇宙創造の様は、同時に人類誕生の様でもある。

大宇宙の様子を知るには、まず小宇宙のわれわれ人間の
心と体の秘密を探ることである。

武道は、この小宇宙探訪の旅でもある。

小宇宙を知るものは、
やがて大宇宙の真相を覚ることを得る。

そもそも武道が、太古の昔より今に残されし理由はなぜ?

そは、最も神の道に近づくに適した鍛錬であるがゆえなり。

まことの武は、神通力を得るに最も確かな方法なり。
「神武」という言葉の由来、まさにこれなり。

いま、この大和の武を練り鍛えるの道まったく廃れ、
人々の華やかなる歌舞音曲に狂い、また表向きのための
茶の道楽に惑いたるは、他ならず言霊の道廃れしに
同じことなると憂うは吾のみなるか、嗚呼。


さて、布斗麻璽の御霊。
この図の由来、および近年の言霊の継承の史について
略述す。

これは、山口志道(1765年生)というという
国学者の家に代々伝わってきた奇怪な図形であるが、

志道自身もこの図形の意味が解けず、
もんもんとした歳月を経てきたという。

しかし、1815年、荷田訓之という狂言師から
「水火の御伝」という、伏見稲荷にご神体として
祀られていた図表を授かり、

志道、この水火の御伝は、布斗麻璽の御霊より
割き分かれたるものなりと直感。

ついに、その謎を一気に解くを得、
古事記の神名などを新たな解釈をもって解明する。

稗田の阿礼による古事記の製作された時期は、
まだ日本に言霊の神威が活きていたという。

しかし、これから記す理由により、
言霊の水火が廃れること日に月に進むこととなる。

いまの日本同様、外国に教えを求め、
言霊の幸はいを失う危機が迫ったのである。

そして、言霊の誠の力の廃れるを恐れた時の有志は、
言霊の法則を一枚の図表に凝縮し後世に託すことにした。

それを密かに稲荷大社に奉納したという。

その秘密は時を経て、
王仁三郎聖師によって温められ、
そして和良久の手に渡り、
まるで冷凍保存された太古の怪物が
解凍されたように息を吹き返した。

それは「もう影から黙ってみておれない」とでも
叫ぶかのように音をたてて動き始めた。

長い長い、本当に長い時を経て、
ようやく神代の水火が復活を遂げたのだ。

吾、幾千万の敵この先にあるとも、この道に命を賭して悔いなく、
ただ、ただありがたしと思う。
                          比良聖

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以下、王仁三郎師著 大本言霊学より写す

                 ※前田 一部現代語に訳す

日本国は、古来、言霊の幸はう国にして、
五十連十行の形仮名あり。
これ、神代の神典なり。

この神典を学び究むる時は、天地万物の初発根源の神理を
詳知せむこと、明鏡の物を照らすに均し。

人皇十六代 応神天皇の御代 百済の国より
王仁と言える物識り人来りて、

論語千字文及び、その他多くの書籍を献りけるより、
漢国学甚だしく代々の行われたれば、

惜しむべき皇国の大本の教えは日に月に衰え行きぬ。

「王仁といふ からのものしり神国に
そぐわぬ教え伝えけるかな」

時は、人皇四十代 天武天皇の朝
神代の言い伝えの将に滅びるなむとなして憂いたまい、

丹波国桑田郡佐伯村、稗田八幡宮在住の
稗田の阿礼に勅したまい、

天皇 大御口つかう御教え置かれけるを、
人皇四十三代元明天皇の朝に至りて和銅四年
太朝臣安麻呂に勅命ありて、

阿礼が覚えたる神代の御伝を文字に記させ、
古事記と号し、皇国の大道を残しおかれたまいしは、

誠にありがたき御事にして、
我が国民の感謝に堪えざる所なり。

柿本人磨の歌に・・・

「敷島の やまとの国は言霊の
助くる国ぞ まさきくあれこの」

と共に神代の正言失い果てむことを
惜しまるると言えども、

言霊の学びは神の御伝にして、
俗人の耳に入ること難く、

文字の学びは人の学びにして俗人の眼に入ること易く、
人の学びほど易きはなし。

故に、人の代に移り変わり、天地の自らにして
何時しか文字は眼移して源を捨て、

流れに染まり言霊の学はおろそかになり、
寛弘長和の頃までは行われしこと明らかなり。

それより後に至りては、知れる人も稀にして、
ついには幾百年の間知れる人も無くなりにけり。

然るに享保の頃、荷田の東麿翁、神代の言霊、
稲荷の古伝に在ることを社務 秦親友郷の伝によりて
説かれしといえども、

いまだ時の至らせるにや、其の学の深きを継ぐ人無く、
今の世となりては、言霊の名のみ在りて、
その法則を知れる人も無し。

次第に俗学に流れて、ただ、
ひろく書籍をのみ見て法則も無く、
彼方の詞(ことば)と、此方の詞とを
見合わせておくくらいに解き、

文字には頼らずと言いつつも、文字より外に頼りなければ、

他の国の文字もわが国の文字も、
わが国の文字の如くになり、

わが国の詞は他の国の詞の如くになり。

ああ、掛巻も綾に畏き、神代の御伝え隠れたるにや、
茲に己れ末の世に生まれて、

常に吾が言うことの大本をも知らずして過ぎ行くことを悲しみ、
若かりし頃より思い悩むといえども、
流れを置いて何の渚にかよらむ。

然るに吾が教親、出口直子刀自は、
艮の大神の霊の幸を得たまいて、

去りぬる明治の二十五年正月、御齢五十七の時より
惟神のまにまに命毛の筆を振るいて、

仮名文字を便りに、宇宙万有の成立を書き誌したまい、

また、吾が先師、本田九郎親徳大人も、
霊学真理を授けたまいたり。

幸なる哉、吾は出口の教親と本田親徳先師の
最も懇意なる神諭に逢いて、

日は日ねもす、夜は夜もすがら、その道を究め、
三つ栗のその中の玉の実を拾い集め、

茲に五十連十行の玉を選び得て、
往古今世の言の葉を掃き寄せ、

広し天地の万物に合わせて神典古事記、
神代の巻に照らし見て、十余り八年にして、

ついに『布斗麻璽の御霊』は『水火の御伝』にして、
形仮名は、神の仮名のことより現るることを覚りて、

曙の鳥の鳴き渡り、東雲の御空高く、旭の豊栄登りて、
樹々の言の葉も文明(あやわかる)る頃、

大正の四年一月の末、金龍海の玉水の辺りに
神の御霊のいよいよ益々霊妙なるを悟る。


続く・・・