「身体操作のルーツ」
日本伝統芸術のルーツが武に帰する。
なぜ、能や茶が武家社会の中で培われたのか?
その礼法、能、茶などに見られる、
足捌き、手さばき、呼吸、目配りなど、
その立ち居振る舞いのことごとくが、
武の技よりの抜粋であることを見ると、
なるほどと頷ける。
また思想や理念、また衣服や道具などの
装飾に至るまで、そのバランス、配色、配置などに
武の技と理念が息づいている。
人は長い戦いの歴史の中で、生存に必要な、
最も実用的な心の持ち方、体の使い方を選択し、
そしてそれに適合する道具を作り出した。
より機動的、かつ実用的に心技体を整え、
いつでも本番に臨む用意を余儀なくされてきた。
時を経て昇華され、洗練され、
日本特有の美的感覚が加味され、
そして戦いの術が場を和ませる術へと変遷した。
それが歌舞音曲の形をとって能となり、
生活の中に溶け込んで茶となった。
能や茶の立ち居振る舞いに見られる静かな物腰。
しかし、その静の中に動が息づき、
一をして十を表現する気迫が溢れ出ている・・・
これこそ武の技の凝縮というものである。
武には、剱を構えて、
相手に近寄り間をしめる動作がある。
そして、これ以上近づけなくなった時、つまり
一触即発のタイミングを迎える際に、
例えば小さなビッグバンの状態を人は体験する。
間の極地である空間の凝縮と広ごり。
そこに新たな力が発生し、力が力を生み、旋回を起こし
猛烈な螺旋となって四方にエネルギーを放出する。
その初発の小さな爆発を繰り返し、
人は少しずつ、少しずつ霊性の向上を遂げる。
四畳半の中に、また舞台の上に宇宙を創作し、
そこに息を凝らして入り、次に息を開放させ、
心にある姿を顕在化させる。
幽から顕への移行である。
見えないものを見えるように形に顕す。
これが日本伝統芸術の真骨頂である。
そして、その伝統芸術の根源が武にあることを
頭の片隅において欲しいと願う。
少なくとも、お茶や能楽の起った時代には、
いまのような表向きを着飾っただけの
慇懃無礼な輩はいなかった。
いや、それが通用しなかったと言える。
私達は、命がけで磨いてきた、
このような先人たちの志と技を忘れてはならない。
能楽、茶道と並ぶべき、いやそれ以上の
伝統と技をもちながら、日陰に追いやられた武道。
生き残るために通過した、血塗られた歴史と、
見世物的な要素を併せ持つ武道は、
文明の開化と共に、時の権力の中で
あらゆるものに利用され、また捨てられてきた。
応用範囲の広さは無限である武道。
それゆえに安く見られ、卑下されてきた。
生き残るために戦うしかない・・・
そんな悲しい歴史を繰り返すことなく、
いまこそもっともっとタイムスリップをして
生命の根源にまで遡り、
創造の歴史こそ武道のルーツであることを
確信する時期に来た様に思う。
武道は、日本が世界に誇るべき
唯一無二の伝統文化であることを忘れないでほしい。
飾ってはならない、偽ってはならない。
素のままで、あるべき元の姿を顕すことである。
ご神前で奉納しても恥ずかしくない清楚な技。
見て、また自らおこなって気持ちが晴れるような技。
そんな技でありたい。
続く・・・・