「容易なる言霊の真意を覚る方法」
大石凝真素美の大日本言霊学の継承者である
水谷清は言う。
『 言霊は至情発露である。
普通の精査の仕方では判る訳がない。
例えば「タカアマハラ」という言う意味を知ろうと思わば、
我々がタカアマハラの中に没入し、
一体になって見なければ理解できない理である。
故に皇典の研究方式は、専ら直観に基ずく外はない。
いわゆる、体験に訴えて直に、その声なり、性相なり、
生命なりの中へ浸り切ってしまう事が肝要である。
「ア」であれば、「ア」を直観する者のみ
「ア」を知る訳である。
「ア」の直観は、晴れた夜空を仰いで、
天空を凝視すること数刻、
深くその広大にして無辺、
悠遠にして無限の感に撃たれた時、
体験者の最後に発する自然の発音は、
単に「アー」の一音のみである。
この無限の感激に撃たれた刹那、思わず知らず
「アー」と発するその人こそ
「ア」を直観したのである 』
このように、言霊とは、難しい机上の理念では
会得することはとうてい不可能である。
言霊は、体験を通してのみ
覚ることが出来るのである・・・と
古人は説いている。
ならば、疑うことなくそうすることである。
尊敬する人の教えを、本当に自分のものにするには、
学んだことを実地に体験し、実感するしかない。
人は体験を通してでしか、納得し、
自分のものとならないからである。
自分のものとならなければ活動に移せない。
まして、人を導くなんてとんでもない。
瞬間に終わった些細な体験は、
何百時間かけて話す講義より数倍の値打ちがある。
教室で難しいことを講義する学者より、
野良仕事に精を出すおばあさんの方が
自然の理を知り、体現している。
もう、「○○様はこうおっしゃった」
「××にはこう書いてある」と言う、
頭と口だけの運動はさておき、
まず、その足で外で出て、
少しでも太陽にあたるべきである。
青い顔して尊い教えも何もあったものではない。
心と体が壮健でなくては説得力に欠けるではないか。
人の言ったことを繰り返し、本の内容を空覚えする・・・・
こんなことは盲目的宗教人や
セミナーオタクにまかせればよい。
道にある者は、
体を張って真理を探究すべきである。
人に言う前に、あなたはどうなんですか?
・・・である。
もう時間はない。
いつまでも金魚の糞みたいに、
特定の人の後ろ盾を頼りとせず、
人は人として自立すべきであろう。
我々は一体何のためにこの世に生まれてきたのかを
思うことである。
何のために古人たちが辛酸を舐め、
真理を探求し、教えを残してきたのかを
考えるべきである。
もう疑うことをやめて素直に教えを受け、
実践するだけではないのか。
神は均しく我々に力をお与えいただき、
そして我々を世に降したはずである。
もし、ある選ばれた人にだけ
この世を動かす権限をお与えになったと言うのなら、
いままでの宗教の説く教えは
全部嘘だったということになる。
「一神即多神、多神即一神」の法則は、
簡単に言えば
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」
と言う意味である。
または、この法則は、
一瞬と永遠は同時に存在することを表す。
今と言う時間がすべてであり、
すべては今という時簡に凝縮される。
先を憂うことなく、
今という瞬間にすべてをかけて
アクションを起こすしかない。
確かに、一人の人の行動や言葉が
世界を動かすきっかけを創ることもあろう。
しかし、最後はみんなでやらなければ、
みんなの力が集結しなければ、絶対形とならない。
続く・・・