「霊体一致」
和良久は、日本古来の霊学、言霊学を
ベースに生まれた武道である。
まず理念があった。
その理念が主になり、
それに従って実践が創られたのである。
これが一般の武道と大きく違う点である。
これは霊主(思い考えを主とする)、
体従(それに形がともなう)の理に当てはまる。
それに対し、既成武道は、人為的に動きを工夫して、
その動きに、無理やり理念をつけたしていく。
形を創作して、それに理念をこじつけること、
これは、体主霊従の理となる。
理念とは、実践が無駄のないように進展し、
それによって対照するものが
同時に存在できるためにあるものである。
例えば、剣術に禅の教えをつけ剣禅一如と言ったり、
心技一体と言ったりするが、
剣術は禅宗の教えが生み出したものではない。
仏教と剣術とは本来まったく関連性のないものである。
戦国の世が終わりを告げ、泰平の世になって、
殺人武術が排除され始めてきた時に、
柳生新陰流が武術廃退の危惧を感じ、
また自流の生き残りを憂慮して
捻出した理念が「剣禅一如」なのである。
心技一体、または霊体一致と言うのは、
和良久の稽古のように理念と実践が
まったく一つに融合したものを言うのである。
これを霊体一致、または神人合一の理と言う。
日本は「霊(ひ)の本(もと)」の国である。
これは霊主体従の国ということである。
霊は内に秘し、それ心であり、
体は外を囲い、それ物である。
日本は心のあり方を重く用いる国柄である。
から(体)の国、または外の国は、体主霊従国と書く。
これを「からくに」または「とつくに」と読む。
また、文武両道とは、レールのような道であり、
この両道は二道であって、一道ならず。
例えば、剣道や柔道だけでは、精神が練れないので
勉強しなさい・・・というようなものである。
おかしなものである。
武道をやるだけでは体ばかりが強くなって
心が正せないというのであるから。
だから文武両道という言葉が流行るのか。
体の鍛錬と心の鍛錬は別物だという妙な考えは
いったいどこからきたのだろうか。
それほど武道は堕落した証拠なのだろう
。
武道だけならイザ知らず、スポーツの世界にまで
文武両道などと言う言葉が蔓延している。
日本武道が外国のスポーツと同じレベルに
例えられると言う事、実に情けないというべき。
武道は、先にも言ったように
霊主体従の法則にのっとって
生まれたもののはずなのに・・・。
理念と実践が交わらないのを文武両道と言う。
文武両道ではいけない。
体の動きそのものが心を練り鍛えるものでなくては
日本の稽古とは言えない。
技とは、その力がどこから出て、どこを伝わり、
誰に対し、どのように影響を及ぼし、
その結果何になるのかが
明確にされていなければならない。
これは形の上だけでなく、
霊魂にも同時に当てはまる理である。
武道は、体の所作を正して精神を矯正する分野である。
それは既成武道のように
「無理なこじつけ」であってはならない。
和良久には、一霊、火水、三元、四魂、八力等の
明確な日本神道の理が一貫している。
動きには、動く理由があり、
思いは同時に動きがともなう。
これが霊体一致ということである。
例えば、「ア」と言う劒・・・その精神は幸魂であり、
これは愛を司る。
動きは、内旋し、左右にその力が及ぶ。
左右、つまりヨコの流れは優しさであり、
柔らかさである。
75声の最初の音声はアから始まる。
「ア」は、幽から顕に移行した時の音声であり、
それは物のはじめの音声である。
仏教は「ア」を最初の音とし、
「阿(ア)」の字を観て瞑想する
「阿字観瞑想」と言うものが
あるのをみても判る。
それは、物の存在する理を説くのが
仏教であるからである。
神道は「ス」の音声を初めとする。
ス声は幽の幽の音声である。
物が出来る以前のことから説くことが神道であり、
物が出来てから後のあり方を説くのが仏(物)教である。
続く・・・