特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座528


「鉢伏山での奉納を終えて」


竜宮の乙姫の大神様を讃える
21日の竜宮神社祭典、
また、天帝(主神)のまったき力なる
八力の神の御働きを讃える22日の鉢伏山祭典。

この両日の記念すべき祭典にご参加
ご奉納いただいた皆様に厚くお礼を申し上げます。

鉢伏山山頂では、急斜面で足場が危険な中、
さらに幽玄なる霧の深くたちこめ、
祝福の雨そぼ降る中におきまして、
稽古着、袴姿の50名近い和良久の稽古人が
一斉に八力、八剱を行い、

しかも誰一人怪我無く、病無く、災い無く、
無事に演武を終えて下山出来ましたことは、
私にとりまして、これほど有難いことはなく、
まさに奇跡的としか言いようがない
出来事でございました。

天の時を得、大神様のご守護と
五代教主様の御見守りを得、
そして皆様の純粋な祈りが通じたればこそ
成し遂げられた快挙であることを
今更ながら痛感し、
感慨深くいたしておる次第でございます。

また、続きに参りました竹田別院は、
去る昭和7年8月13日に、

『武は矛を止めしむるの意でありまして、
破壊殺傷の術ではありません・・・

地上に神の御心を実現する
破邪顕正の道こそ真の武道であります』

と言う、出口王仁三郎聖師の設立主旨によって
発足した「大日本武道宣揚会」の本部が
置かれたところであります。

武道宣揚会は、当時全国に
数何万人もの会員を有するわが国最大の武道組織であり、
その竹田での発会式には、

竹田の駅から数百名の武道宣揚会に
会員たちの行列ができたと言い、
それはそれは勇壮な光景だったと伝えられています。

元来、私は、23年前、この武道宣揚会が、
まだ存在すると思って
電車に飛び乗ったのでしたが、
その会がすでに無いと知ったとき、

「よし、きっといつかは
この大日本武道宣揚会に負けない会を
復活させてみせる」と誓ったものでした。

そして、昨日、鉢伏山での奉納に続き、
大勢の和良久の稽古人さんたちと共に、
この竹田を訪問させていただいことは、
まことに言葉に変えて言い尽くせない
意義深いものを感じてなりませんでした。

日本は矛(武)をもって生まれし国と
言い伝えられています。
すべての芸術も武の技から派生したものです。

開祖の御筆先に言う「元の昔に返す」
つまり原点に返る意味で、日本武道復活は
是非成し遂げねばならないことであろうと思います。


さて、私の出生地は
この竹田にも近い福知山というところです。

生家は現在は引き払ってしまって、
もうすでにありませんが、
天田郡夜久野町の額田というところです。

鉢伏に向かう途中、
私の先祖が眠る墓に詣でました。

幼い時分、夏休みによくこの田舎に来て山に入り、
川に入って遊んだことを思い出し
非常に懐かしく思いました。

いまは山も川も人も家も
何もかもすっかり変わりました。
変わらぬものはただお墓だけでした。

実は、若い日とても嫌だったこの故郷でした。

「二度と帰ってくるものか」と思ったほどでした

なぜ嫌だったのかは、これと言って特定できませんが、
何か薄気味悪い所で、
子供心に「怖い」思い出しか残っていないのです。

いわく因縁付の井戸や川があったり、
例えば人魂が飛んでたり、
夜に狸が戸を叩きにきたり、

昼でも空気の沈んだ薄暗い旧家で、
そこでの寝泊りの何と勇気がいったことか、

屋敷内での妙な影や気配に
寝れない夏休みの日々が思い出されます。

まったく、この田舎は幽霊や妖怪の巣かと
思ったほどでした。

また、大阪育ちの私には不便極まりない場所であるし、
虫や蛇や獣がうろうろする
ジャングルのような未開拓地にも思え、

食べ物も子供の舌には合わない田舎料理で、
特に煮物ばっかり出たからかもしれません。

田舎へ行けば逆に都会者が馬鹿にされる
ということも経験しました。

地の連中から「そんなこともできんのか」
「そんなん怖いのか」と馬鹿にされたのが
子供心に悔しかったことを思い出します。

・・・しかし今は違います。

物凄い力の静まる霊山「鉢伏山」を近在にいただき、
竹田、そして綾部、亀岡に続く
この丹波の地に生まれたことの幸せと誇りを
確かに噛み締めています。

この歳になって、
改めてこの丹波の田舎で生まれたことを
心から誇らしく思えるのです。

・・・そんなことを亡き父に語りかけていました。
そして墓前で「八力」を演武しました。

父だけでなく、先祖たちも意義を正して、
とても喜んで見ていてくれたように思いました。


次に墓参りを終えて夜久野を出発し、
隣にある和田山という町に入りました。

この地域にはつるぎヶ丘、つるぎ公園、
つるぎ大橋・・・など「つるぎ」の名のつく地域が
点在しています。

古墳も多く、その古墳から剱の出土があってのことで
つるぎの名称がついたのかもしれません。

『つるぎ』の名に誘われて、
「つるぎ公園」に向けてハンドルを切りました。

行くと、何とそこには古墳群がありました。

古墳の前のプレートには次のような解説文がありました。

「戊辰年銘太刀」(ぼしんねんめいたち)と言う
太刀が古墳から発見され、
これは推古天皇の時代のものですが、
この太刀には「戊辰年五月中」と言う銘文が刻まれています。

鉄にタガネで文字が刻み込まれ、
その線上に銅線を入れて字を書くもので、
銅象眼(どうぞうがん)という技法であり、
これは『日本最古』の銅象眼です。

なぜ、この太刀が作られたのか、
戊辰年にどんな出来事があったのか、今後も謎は続く・・・」

ご先祖様のお導きか、夜久野のお墓参りに次いで、
この古墳にも足を運ぶことが出来、
そこで日本最古の細工を施した「謎の剱」に出会いました。

古墳前で天津祝詞を奏上、剱の威徳を頂戴し、
おかげで勇む思いで鉢伏に向かうことが出来ました。

今回の奉納が行われる時に向け、
私はずっと八力の神様のご神名を終始唱えていました。

「スイジネノカミ、ウイジネノカミ
カシコネノカミ、オモタルノカミ、

オオトノジノカミ、オオトノベノカミ、
イクグイノカミ、ツヌグイノカミ・・・」

この数日間は、まったく祈りと緊張の連続でありました。

様々な思いが交錯して、
奉納当日まで夢とも現とも言えない夜を随分過ごしました。

片時でも神様と離れることが怖かったのです。

絶対に参加者の誰一人とて怪我してはならない、
絶対に祭典の荘厳さを損なうようなことが
あってはならない・・・など、
図らずもいくつかの他方面からの制約もあって、

絶対失敗は許されない、と言う、
私自身かなり追い詰められた状態にありました。

祭典場所は、非常に足場の悪いところで、
いまだかって誰も何らかの奉納するなど
思いもつかなかったところでした。

立っているのがやっとというところで、
しかも、そこで武道の奉納?・・・など、
執行部の皆様をはじめ申し訳なくも、
かなり周囲を困惑させていました。

まして、そこで4〜50人の人たちが
一斉に剱を使って動くなどは
「無謀の極み」と言われても仕方のないことでした。

前田さん一人でやれば・・・とも言われましたが、
私としては是非、全員武道着姿で揃え、
志を一つにして山頂で皆で一斉に
剱を天に突き立てたかったのです。

「神剱発動」をそのまま実現させたかったのです。


何もかも無理から生じたことでありましたが、
御心ならきっと適う、
御心でなければきっと何かに手落ちが生じる
・・・そう思ってました。

もし手落ちが生じたならば
責任をとって和良久を解散し、
私も亀岡を離れる覚悟をもっていました。

何より、本来の武の姿を、
鉢伏山上で型として示す必要を感じていました。

我々人類が誤った力の使い方をしていることへの
お詫びと同時に修正を
この地でやっておく必要を感じていました。

それは必ずや世界をつなぐ大海を統べる
竜宮の乙姫様のお力により、
破の力を消し、代わりに和の力は
きっと世界中に広がるものと信じていました。

小さな型はやがて大きな型となります。
小さくとも正しい型を出すことが
大事であると思いました。

そしてご奉納と同時に
神軍ここに結成せりと言う
悪神への威嚇もやっておきたかったのです。

「オロチを退治した剱はここに健在であるぞ!」
と雄叫びしておきたかったのです。

・・・以上のようなわけで、
わざわざあのように装束を合わせ、
剱を持っての登山になりました。

長々と書きましたが、とにかく、
おかげさまで無事奉納を終えさせていただき
今はほっとしています。

本当に神様と皆様のご協力のおかげと
感謝しています。

ありがとうございました。