特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座529


「違うけど、違わない」(1)


螺旋を追求していききますと、
螺旋の力が自ずから生き生きとして
まるで生き物のように
語りかけてくるように感じます。

より美しく、より強く、より速く・・・と
技自ら要求してくるのです。

それは向上して止まず、技そのものが磨かれ、
洗練されて、まったく脂肪の無い
シェイプアップされた肉体のように
なることを求めているようです。

しかし、それは堅すぎず、柔らかすぎず、
しっかりと締まるところは締まり、
緩まるところは緩んでいるという
臨機応変さといいますか、
そのような状態が出来上がっていくようです。

つまり、無理、無駄の無い必要最小限の動き
のみが残り、最大限の力を発揮するのです。

螺旋を描くたびに、二度と同じ動きが
現出されることなく、常に変化を続け、
前へ前へと前進していきます。

一回目の螺旋より、二回目、二回目より
三回目と螺旋が重なるたびに
滑らかになっていくのです。

・・・ある意味これは非常に困ったことです。

さっきやった動きと、今やった動きと違う
という混乱を招きかねないからです。

やっている本人としては、
まったく同じように動いているつもりなのですが、
別の者が見たら「違う」ように見えるのです。

この問題は、稽古すればするほどに
変化の過程は容赦なく訪れ、
技の修正は余儀なくされてしまいます。

「技は変わるのか?」
「そんな、ころころと変わってもらったら
教わる側は大変じゃないか」

「それじゃ何を信じていけばいいのか」
「気まぐれな稽古もいい加減にしてもらいたい」

・・・などと、方々からお叱りを受けそうです。

しかし安心してください。
本質はまったく変わりません。
技には一向に変化無しです。

ただ変わるのは技のもつ速度と強さ、
美しさです。

旋回している形状に角が無くなり、
一層丸みを帯びてくる・・・
と言うことだけです。

例えば、独楽が回るようなものです。
独楽はゆっくり回っている間は、
複雑にぐらついて
ちょっと押せばひっくり返ってしまいます。

しかし、高速に回転している独楽は、
ぴたっと止まっているように見え、
触ってもはじき返す猛烈な力をもっています。

その姿はまことにシンプルでいて、
しかも静かで凛としています。

このように、技は進むにつれ、複雑さが消え、
ますますシンプルな形になっていきます。

もつれた糸がほぐれたように、サラッとして
一見誰でも出来そうに、簡単なものに見えます。

もちろん螺旋は宇宙一シンプルな形状であり、
総てのものが有する基本的秩序保全のシステムであります。

しかし、時とともに人の思いは複雑になり、いえ、
言葉は悪いのですが、ひねくれて・・・
と言ったほうがいいかも知れませんが、

素直になれず、余計なことを考えすぎて、
動きや思いに蛇足をつけて
一層世の中を複雑にしています。

現代人は、単純なことが出来なくなった・・・
と言えます。

和良久が難しいと言われるのも、
教える私たちの技量不足はもちろんですが、
以上の理由もあるように思われます。

角張った動きは、順序を経て覚えやすいのですが、
まろやかな動きについては、とらえどころが無く
難しいのでしょう。

思えば簡単すぎるのも、
逆に言えば難しいことなのかも知れません。

さて、よく冗談で「クルクルパー」と言って、
人差し指を回して後に、
手をパッと開く動作がありますが、

あれは中々真理をあらわしているように思います。

物事をクルクルっと円く治めて、
パーっと開放させる動作で、
例えば和良久の剱の技は、
まさに「クルクルパー」そのものです。

クルクルっと旋回して受け、ぱっーと打つ・・・
75剱の技の基本リズムとまったく同じです。

螺旋は、歴史であり、輪廻転生であり、
やがて明るい未来へつなぐ覚醒への道です。

なぜなら水火(生き〜生命)は
巡り巡る宇宙の回転だからです。

二度と同じ過ちを繰り返すことなく
向上して止まないこの普遍のリズムに
うまく乗れることが大切でしょう。

それは、まるで子供の時に大勢で遊んだ
「大縄跳び」の縄のリズムに
入っていくようなものではと思います。

螺旋は、水にあっては波となり、
空にあっては雲を動かす風となって現れます。

また人にあっては、肉体の動きと現れ、
心にあっては情のうつろいになるでしょう。

それは一定のリズムのようで、実は一つ一つが、
周囲との調和のために先を見越して微妙に
時と場を変化させ続ける大自然の「ユラギ」
そのものではないかと思うのです。

話は、長くなりましたが、
このように螺旋の技である
和良久は変化の連続です。

しかし、本質、つまり「一霊四魂」「八力」に
変化があろうはずはありません。

神の言葉である言霊は普遍のものです。

しかし、人の使う言霊は、
人にも形や音や色が違うように、
違ってしかるべきでしょう。

稽古で言えば、75剱は、75声の働きですが、
これも人の音声に違いがあるように、
剱の動きも段階によって
特徴が出てくるのはしかたありません。

動かすことの出来ない法則は、
神の真理から出るものであり、
我々、人は、その動かすことの出来ない
法則に基づいて、鍛錬を繰り返し、
いろいろと変化、変遷を遂げながら、
やがて動かすことの出来ない真理に
もどっていくのかも知れません。

違うけど、違わない・・・

違わないけど、違う・・・

この矛盾が矛盾に感じなくなった時、
永遠と瞬間というものが同時にとらえる次元に
立っているのかも知れません。

続く・・・