75通りの剱を稽古する意義
なぜ『ア』の剱は、打ち込んでくる剱を
「凝」で組んで吸う息で上げ、
そして、「解」で打ち下ろすのか。
また『キ』は、なぜ「弛」で組んで下げ、
「引」で打ち上げるのか。
このように75とおりの剱というものがあり、
それを稽古する意義を思う。
それぞれの動きには、それぞれ特有の意味がある。
意味のない動きなど存在しない。
すべては徳を高めるために今日を生きる。
例えば「ア」の剱であれば内回り旋回での
ヨコの回転である「凝」で受ける。
凝は、幸魂であり愛を司る。
そして、吸う息であり、上っていく水火である。
あらゆる外からの事象をそのまま受け入れ、
昇るような「愛」の気持ちをもって迎え入れる。
アの吸う水火である凝は、
そんな意味をもつように思う。
そして、相手の様々な打ち(思い)を引き取って、
それを、もっと極端な表現を許されるなら、
「凝」で抜き取って・・・と
言ったほうが適切かもしれない。
抜き取った相手の水火を旋回させ、
遠心分離作用をもってクリーンナップ(浄化)し、
また綺麗になった水火を相手にお返しする。
例えば、表現は適切ではないかもしれないが、
稽古は人工透析のようなもののような気がする。
(「人工透析とは、体内にたまった老廃物や毒素を
ダイアライザーと言う体外にある機械(人工腎臓)で
ろ過する治療〜井口良司氏ホームページより)
自己の力では処理しきれない不純なるものを、
いったん体外へ出し、一巡させてろ過し浄化させ、
また体内へ戻す。
このように、人と向き合って組む稽古は、
お互いの浄化のためにやっていることを
忘れてはならない。
魂の入れ替えと言うか。
打ち方は、自分の打とうと言う意思で剱を打つ。
その時、打ち方は、心の底からの水火をもって
「解」なら解という打ちを放つ。
その解と言う打ちを選択した方は、
解(愛)に込める思いと言うものがある。
このように、打つ方にも、受ける方にも意味がある。
なくてはならない。
ただ漠然として生きているのでは人生がもったいない。
自分は何のために・・・が大切なのだ。
目標をもった人生には、
意味のある動きと心が伴うものだ。
75剱の組稽古は、
剱と剱の攻防を学ぶものなどではなく、
魂と魂の交流である。
私たち現界に生きる者は、
見える形をもってでしか、強く学ぶことが出来ない。
見える形、顕れる形・・・顕なる物、
つまり剱で学習していくのである。
続く・・・