特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座 誌上講座

誌上講座550


生きる技


天界のコミュニケーションは、
極めてシンプルなものである。

それは「アオウエイ」の父音のみで事足りる。

さらに上層へ至ればそれさえも
不要なほどになって、いわゆる水火だけで会話する。

ただの呼吸、ただの動作。

現界においても、このように単純で素朴なものの
中に潜む真意を覚る鍛錬が大事である。

しっかり水火の鍛錬を積んだ者、
もしく天性の特殊な感性をもった者であれば、
人の心の奥まで伺い知ることも出来る。

だが、まだ、現代の世の中の人のほとんどが
それを理解していないのが現実だ。

いや、退化し、忘れた感性と言える。

太古の人たちは言葉という技がなかった。

言葉という技を使わなくても
水火だけで分かり合えたのである。

言葉の発達はある意味進化ではなく、
退化とも言える。

水火で分かりあえたものが、
水火で分かりあえなくなったのだ。

つまり見えない霊的コミュニケーションが消え、
見える形でしか交流をはかれなくなった。

心が消えた・・・。

徐々に人心荒廃し、内分の低下によって
水火の力廃れてしまい、もはや言葉という
技にすがる以外に手段がなくなった。

今の世を見ても分かるだろう。

一言で分からないから、分かるように補足をし、
また飾り付けをして言葉を作るという
作業をしなければ相手に伝わらなくなっているのを。

物事は簡単なほどよい。
「シンプルイズベスト」と言う。

しかし、真にシンプルであることの中に含まれる
精妙さというのは、拡大すればまさに
深遠であり微妙なものなのである。

動極まれば静となる。
渦極まれば点となる。

すべては同一に存在する。

すべてを知ってこそ、すべてを知らないでいれる。

日本は「日の元」と言われる。
霊、魂、心の基となる神現れし国である。

私たちの目指すものは、
点に至る凝縮された世界の実現である。

それは、同時に宇宙大に満ち満ちる膨れ上がる
壮大な秩序ある空間の現出を意味する。

凝縮された言葉と動作を探り、
それを身につける事を学ぶのが日本武道である。

凝縮は膨張をもって知る。

武道における技の働きは、反作用による。

右に行くには、左の力を借り、
上るには、下がる力を借り、
前進するには、後退の力を借りるのである。

ワンクッション置く・・・といったら良いのか。

会話をするのに、言いたいことを言うのは良いのであるが、
それが本当に利他的なものであるのか。
そこに己の利己欲がないのかを
確認したうえでの会話でなくてはならない。

現界においては、いわゆる目に見える
「技」を用いねばならない。
技は飾りつけ、美的装飾と言える。

言葉に愛という飾りを、
理解いう飾りを、
智恵という飾りを、
そして勇気という飾りをもって相手に渡すのである。

それは、人に物をプレゼントする時のことを
考えればわかるだろう。

相手が最も喜んでもらえる品物を選び、
それを箱に入れて崩れないようにし、
包装して綺麗にラッピングし、
持参して勇気をもって謝意を述べお渡しする。

言葉もこれと変わらない。

言いたいことがあっても、周囲にかもし出されている
場の雰囲気をつかみ、相手の気持ちを察して
最も適切な言葉に変えて発言するのである

人間関係が整っていないうちに、
言いたいことを言ってしまうのは獣に等しい所為だ。

自分の庭に鳥が舞い来て、
樹の実をつまんで怒る人があろうか。

動物だから、そういった行為が自然であるということを
我々人間は知っているので、
見ていて違和感を覚えないのである。

ああ、鳥が飛んできてるな・・・と思うぐらいである。

これが、人間が人の家の庭に勝手にはいった時は
それにあたらない。家宅侵入という事件になる。

また、道端に犬が寝そべっていても不思議でもなんでもないが、
これが人間となると非常に違和感がある。

それは人としてなすべき行為ではないからである。

動物的な発言をする人、どこにでも土足で上る人などは、
まだ動物に生まれ変わって間がないのである。

「仕方ないか、まだ人としての魂が出来上がってないんだ」
と寛容に見てあげ、時を計らって気長に
人としての躾(しつけ)を施していくより手はない。

しかし、鳥はいつまでも鳥のままであってはならない。

早く人間社会の秩序にあった生き方を選択し、
神に最も近い人としての性を覚って
楽しく生きていくようつとめるべきである。

人は人ととして「向上すべき義務」を果たさねばならない。

人は「向上しなければならない」という義務があるのである。

これは神との約束である。

動物的なものから人間的なものへ、さらに
神的なものへと近づいていく義務があるのである。

だから、思いを言葉に代えて、
それも分かりやすいような形に加工して
発せなければならない。

どうしても我々の世界は、
75声もの音声の数が必要なのだ。

音声には色がある。香りがある。
形がある。触感がある。

様々なラッピングをして、
精一杯の愛情を込めて発する言葉と行動。

それは決して虚飾とは言えない。

思いをそのまま伝えることが果たして
親切なのだろうか?

例えば、幼い子供に対して大人の会話と
同じレベルの話をしたとて通じるだろうか?

それが誠意と言えるだろうか?

自分の気持ちを伝えるのに技が必要だ。

様々な言葉を飾ってわかりやすく、寛容に。

言葉も、行為同様に傷をつける。

心に傷ついた傷は癒えにくいものだ。

言葉も扱いを誤ると暴力になる。

正しい言葉は、正しい行動とともにある。

技・・・人を愛する技、人と和する技、
人と語り合う技、ものを育む技、人を癒す技、人を守る技。

すべての破壊を阻止し、悠久の平和を築く技を
私たちは身につける義務がある。

そう、技は人が生きていくうえで絶対学ばねば
ならない義務でなのある。

無知は罪である。

この世にある限り、この世の技をもって、
すべての人に愛と寛容を示すのである。


続く・・・