蹴り
足を使って相手を攻めるというのは、余り行儀よい行為とはいえないが、
いざとなったら、かなり頼りになる「飛び道具」ではある。
中世の頃流行った「柔術」の技のなかにも、
当身(投げを打つ前に相手の力を分散させるため打撃を加える技)の中に
見受けられる技のひとつに「蹴り」も含まれる。
さらに古く「蹴り」の発祥は、日本書紀によると垂任天皇7年の
当麻蹴速と野見宿禰による角力(すもう)が最初の記述である。
当時、日本最強の呼び名も高い当麻蹴速(たいまのけはや)を、
出雲の野見宿禰(のみのすくね)が接戦の末、最後に腰骨を蹴折って
倒したというものである。これが天覧相撲の始まりと伝えられる。
これは、一般に相撲の発祥ともいわれているが、
「蹴り」の歴史においても重要な事件である。
このように元来相撲とは
元来「相対する者を撲る」打撃系の格技と考えらる。
「蹴り」は、歴史の表舞台には現れず、わずかに、
織田信長が明智光秀を蹴り落としたことが本能寺の変の
引き金になったともいわれている。
このことは、その後長く「蹴り」がタブーとされていたため、
有職故実に詳しい明智光秀は、「蹴り」を最大の侮辱として考え、
謀反にいたったとしても不思議はないのである。
また、明治期にはいっても、尾崎紅葉は「金色夜叉」の中で、
裏切ったお宮に対し、「金色の鬼となって」復讐を遂げると
誓った寛一は「蹴り」を入れる。
つまり、これからは人間でなく鬼としていきることを誓ったため、
人間界のタブーである「蹴り」を意識的に寛一は使ったものと思われる。
また、相手を蹴落とすため、そして蹴落とされないための呪術として
達したのが、宮中等の正月行事で行われる「蹴鞠(けまり)」である。
いずれにしても、蹴りというのは品(しな)の良い技法ではないのであるが、威力は手の数倍はあり、格闘技ブーム絶頂の現今、
この破壊力溢れる技である蹴りの技を避けて通る訳にはいかない。
蹴りの技法も、江戸、明治の頃の柔術の技法とは雲泥の差があり、
その技法はかなり研究され、そのスピードと破壊力は想像を
絶するものがある。
現今の古武術使いの人たちには、とうてい現在の格闘家たちの放つ、
猛烈な蹴りに対処できる者はいないと言っていい。
タイミングよく受けないと、たとえ腕で受け止めても、
その腕は簡単に骨折する。
その破壊力は圧縮バット3〜4本は束ねてへし折り、
頭部に当たれば即失神。腹にヒットすれば内臓が破裂をおこす。
近年はローキックと言われる、脚の大腿部を狙った下段蹴りが
最もポピュラーになっている。
これも角度とタイミングを見計らって受けないと、
脚はたったの一発で筋肉が切断され、立ち上がれなくなる。
これは私が空手師範時代(正道会館)に多くの、
門弟たちに教授し、そして実戦で経験してきたことである。