稽古における想念(1)
既製武道の稽古では、相手をこうして倒すとか、
こう投げるとか、こう斬る・・・とかいう表現を用います。
また技の名称も、例えば「○○締め」とか「○○斬り」
「○○顔面打ち」などとか、
非常に血なまぐさい名称がつけられています。
そして決め技を「必殺技」と称します。
以上のことは他の武道への非難でも何でもありません。
既製武道は戦いのための戦術なのです。
ほかに言い様があるはずがないのですから、
考えてみればそれは当然なのです。
相手を倒すという過程を練磨することによって、
反作用から学ぶことを体験する道が一般に言う「武道」なのです。
武道は「矛をおさめる道」であるとか
「破邪顕正」をおこなうとか言います。
また一部の武道では「和の武道、愛の武道」を提唱し、
わが武道は試合を行わないと言い、演武活動を主にしています。
しかし演武活動も「強さ」を誇示するための手段のようです。
稽古はと見れば、相変わらず相手を投げたり、締めたりして
必ず双方に「痛み」を伴います。
そればかりならまだしも、「うちの武道には敵がない。宇宙一強い」と言い、そこでやめておけばいいものを「○○の武道より優れている」
とまで言い始めます。
例えば「○○の武道がこう来たらこう投げる」とか「こう打つ」などと
絵に書いた餅のごとく、自分の都合のよい技を構築して、
実際にその道の一流の方と対戦することなく、
自流と比較した構図を描いて専門書などを
著されておられる自称達人が多数いらっしゃいます。
武道は平和を招来させるためにある稽古事だと言うのなら、
なんで稽古の中にそういった「戦いの想念」が
介入する言い回しを使うのでしょう?
また「効いた」「効かない」のと「痛め合い」の域を脱っせないのでしょう?
武勇絶倫が通用し、それが自慢出来るのは、
低い霊界であることを知らないのでしょうか。
続く・・・・