稽古における想念(5)
ご承知の様に、一つの例をとれば、和良久の稽古では、
倒す、斬る、殴る、締める、などの戦闘的言語は必要がなく、
使用していません。
ひたすら剱を旋回させて八力を練磨します。
相手とは「息」を合わせることを主に置き、
決して相手の動きにくい行動はとりません。
例えば、相手に向って剱を打つにしても、「やっつける」と
思って打つのではなく、「相手に力を与える」ために剱を
用いて打ちを行うのです。
そして剱を通じて「力をもらった」相手側は、
今度はその力を剱の旋回力によって力を増幅させ、
また相手に「お返し」するのです。
その増幅された力を返してもらった相手は、
益々パワーアップしていくというシステムになっています。
つまり相手を力づけるとともに、
自分も力をつけていくという技の交歓を稽古で楽しむのです。
破壊のために打つのではなく、そういった「創造」のために稽古を
行うのが和良久です。
「言葉は神なり」と聖書はとなえます。
その言葉は息(水火)によって生まれました。
すべては「息」が原点です。
その息の元が「霊」です。
霊は神により活かされています。
息の運用によって神の偉大さを知ります。
この息の発生により起こる力の「運用を司る」のが武道の分野なのです。
息により力が生れ、そして日常の行動があります。
鍛錬にはふたつあると言われています。
「言葉の鍛錬」と「息の鍛錬」です。
武道は「息の鍛錬」に属します。
(ちなみに音声の分野が和歌といわれています)
そういった意味で、能楽はその息と動きの調和を見事に表した
素晴らしい芸能の一つであると存じます。
このように痛みを伴わず、また相手と競うという想念の湧かないもの。
しかも動きにいやらしさがなく「凛として」、心身の向上できるもの。
そういった条件を満たしたものがきっと「みろくの世」に残る
稽古事ではないかと存じます。
続く・・・