「先人に学ぶ (1)」
様々な武道の伝書がありますが、その技が神業に達し、天に通じた先人
のみを選び、ご紹介いたします。
以下の内容は、上泉秀綱、柳生宗巌、そして柳生宗矩に至る柳生一族が
激しい修練の末「無刀取り」を完成させ、国(徳川)にその心技をもって仕え、その無刀の心は政策にまで反映された言われます。
「殺人刀」を「活人剱」に変えた稀有な武道家が残した伝書を私なりに解読してみました。
これらの言葉は、私も稽古修行中に幾度も心に唱えて吾を励ましてきました。
解説は独断的解釈かも知れませんが、私が稽古を通じ、体験から得たもので、あくまで参考のためと思い、記させていただきます。
新陰流兵法家伝書より
『 様々の習いを尽くして、習い稽古の修行
功積りぬれば、手足身に所作はありて心
になくなり、習いを離れて習いに違わず、
何事もする技自由なり 』
考えれる範囲のありとあらゆる稽古をし尽くして、稽古も、もうこれ以上やりようがないという程までやり、またそれが技術的にも精神的にも高いレベルに達したならば、こう来たらこうしよう、また、ああ来たら、こうしようというマニュアル的意識は消え失せ、頭で考えることなく無意識の状態で体が勝手に相手や周囲の所作に反応して動き、しかもそれは稽古によって培った基本動作からまったく外れることはなくすべて的確に決まるものである。
あらゆる動きが即ち「技」になるのである。
何をしても、何を思っても生きて呼吸していること、そのものが天の意志に通じるようになる。
『 この時はわが心、いずくにありとも知れず
天魔外道も、わが心をうかがい得ざる也。
この位に至らん為の習い也 』
このレベルに達したなら、心は自由に解き放たれいかに力ある悪霊、悪鬼、邪神、邪霊などと言えども
その者の思うこと、考えることは察知することは出来ず、そのレベルにある者の進む道を妨害することは出来ない。
稽古修行とは、このレベルに達するために行うものなのであり、それ以外の何ものでもない。
言い換えれば、稽古により厄難、人災、災難などが寄り付かない結界が形成され、心安く天命をまっとう出来るのである。
稽古をもって心身を清め、鎮魂をなし、もって
尊き神の入れ物となり、
地上に神の望まれる世界を招来させることが
道にある者の努めである。
続く・・・