「先人に学ぶ (2)」
『 習い得たれば、また習いはなくなる也。
これが諸道の極意向上也 』
艱難辛苦を経て、稽古によって心技をまったく修得し、自分のもつ限界点を越えて壁を突破し
すべての技を身に付けたならば、その思いその動きは玄人っぽく見えず、反対に素人の姿に逆戻りしてしまう。
真の道にあるものは、威張りもせず、また臆することもなく、淡々として一見ただの人にしか見えないものである。
人が出来ない技ができるからと言って玄人ぶり、偉そうにふるまっている間はまだまだである。
大衆の人たちが、一見して驚き感動するものには本物はない。それは見せかけの姿に惑わされているのである。
真の達人を知るのは、達人のみである。
また本当の余裕というものは後も先も、また今も知った者でなくては出るものではない。
三千世界を見通す心眼が備わると、慌てず騒がず日々を送ることが出来るものである。
飄々として、ただそこにいるだけで人を爽快ならしめる人と成らねばならない。
これがあらゆる人生の学びの目的であり、向上した者の姿である。
向上への道は、宇宙に飛び出す様と同じである。
宇宙に向けて飛び出すには、まずしっかりした発射台と頑丈なロケットを造る。
人間で言えば「頑丈な体、健康体」の形成である。
そして膨大なエネルギーをもった噴射力をもって虚空に飛び出し、大気圏という壁を突破しなければならない。
人間で言えば「体力による頑張り」である。
ここまでが苦しい所である。
しかし大気圏を飛びぬけて、宇宙にいくとそこはふんわりとした無重力空間がある。
体力を超えた「精神世界」への没入である。
ここでは怖い表情をして肩肘怒らしても何の益もない。通用しない。
苦しい、限界だと思われる壁を頑張って乗り越えた先にあるものは、力のまったく通じない心の世界があるのである。
物質世界から精神世界。
現界から霊界へ。
人は、形だけを見る眼から、さらにその形を支え、動かしている心の存在に気づき、それを見る眼を得るよう努めねばならない。
続く・・・