特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座206


「和良久って何だ?」 (3)


さて、世の中にひとつぐらい本当に「戦わない」
「競わない」という稽古事があっても
いいのではないでしょうか?


愛を標榜しつつ、戦っている武道があります。

「いえ、うちは戦っていません。
試合もしません。

ただ相手の力を利用しているだけです。
相手は、自分の力で勝手に転んでいるだけなのです」

確かに試合競技はないでしょう。

しかし、稽古の中で、相手の腕を捻ったり、押さえたり、
倒したりしています。
それには必ず「痛み」がともないます。
これは立派な試合です。

最初、心穏やかに稽古をしていても、投げたり、
捻ったりして、痛みを感じていくうちに
「怒り」やら「恐怖」が発生いたします。

それで「今度は俺が投げてやる、痛めてやる」
という戦闘態勢に入ってしまいます。

これは人間のもつ自己防衛の意識が働くためで
致し方ない現象です。

しかし、試合がないので、相手が先輩であり、
年上である、女性である・・・などのことで、
その痛みをこらえてやり、怒りを鎮めるのに必死になります。

まことに精神衛生上よい事態ではありません。

これなら、いっそのこと公開的に試合をやって
決着をつけた方がまだよいように思います。

表面には「愛」を唱え、やっていることは「戦」では
矛盾も甚だしいといえます。

物事は手段が大切だと思います。
稽古でも本当に「戦わない」ことです。

稽古で投げる、絞める、突く、蹴る・・・などの行為があれば、
いくら愛だと言っても、これは立派な戦闘訓練です。

戦闘訓練から「愛」は生まれません。

また、僧の姿をし、仏の教えを学びつつ、
戦闘訓練を行っているものもあります。

やはり「戦わない武道」だと言ってます。

護身目的にせよ、こう来たら、こう倒す・・・
と言う技がある以上、それは戦闘術です。

自分の体を酷使し、相手を痛めつける訓練を積むやり方は
インドから渡来したバラモンの教えです。

神を讃美しつつ、楽しみつつ学ぶ、と言う和の国日本には、
どうにも合わない方法のように私は思います。

稽古においても、実際においても
戦闘行為を行わない武道がいままで存在したでしょうか?

私は、和良久以外には知りません。

とにかく、本当に平和を願うなら最初から、最期まで
徹底して戦わないことです。
手段を選ぶことです。

これはある意味、戦うより大変なことかも知れません。

しかし、しっかりした理念と技術があれば可能です。
幸い和良久にはそれがあります。

八力、鎮魂、75剱。

天啓の教えと技をいただいた私たちは本当に幸せです。

私たちの手は、相手を突き放すことも出来れば、
相手を抱くことも出来ます。

相手を突き放す動きは「直線」です。
相手を抱く動きは「螺旋」です。

あなたはどちらを選びますか?

続く・・・