言霊剱と和良久 〜奥山師から四代様へ(2)
いまやっと、師の伝えんとしたことが、そして、その根気よく
叱り続けてきてくれたことが理解出来るようになりました。
動き、形は時間をかければ猿でも憶えます。
しかし、形の中に潜む見えない部分を育むのが大和の国の稽古です。
霊主体従(ひのもと)の国である、我が国のすべての技は
呼吸のあり方を重視します。
動きとともに呼吸があるのではなく、呼吸とともに動きが生ずるのです。
その順序を間違ってはなりません。
我々の呼吸(水火)を司っているのは、神(火水)であること。
気剱体の一致といいますが、大局的には気は「神」を表し、剱は呼吸、
または祈りや想い、そしてそれに体〜「人」が従ってきます。
神と人を結ぶのは「祈り」であること。
武道で言えば気と体を一致させ、つなげるのは剱ということです。
奥山師が私に重点的に教えたのは「腰」と「水火〜息」の実在でした。
つまり外観からは見えない体と心の働きでした。
当時、まだ言霊剱という技そのものがはっきりと全容を現しておらず、
すべてに試行錯誤が続いていました。
もちろん75剱も試行錯誤のままでした。
そして、師は大本本部を退職されました。
いままで身魂を傾けて大和の武道復活にかけてこられた疲れからか、
近年はご自宅に篭られる日々。
手元に残る師が残した難解な資料のみが
先生となりました。
理念は固まっていますので、あとはこれをはっきりと具現化し、
力学的裏付けをとってすべての理念を技化させることが
私の作業となりました。
そして孤独な一人稽古の日々が続きました。
そこに光明を与えてくださったのが大本四代教主出口聖子様でした。
教主様は、私を内事室という教主様の身辺の用事をお手伝いさせて
いただく部署に向かい入れてくださいました。
そして様々な生きた実地の教えをお与えくださいました。
それは悩みに沈んだ私の心に活力を与え、新たな技の展開に
つながっていくことになったのです。
教主様のもとにいて、次々と技が形を現す不可思議さ。
和良久の始まりでした。
師とは、何もその専門分野に秀でたオーソリティーばかりではない
ということ。
求めれば、そしてそれがより深くなっていけば心の問題を解決していく
だけで、思いは形となって現れるもののようです。
武道をやるのに、武道の技を知る先生につくよりその内面を動かして
くれる人に出会うほうがむしろ開けてくる場合があることを知りました。
四代様は、いつしか私にとって武道の師となっていました。
植物を愛し、人を思いやり、笑顔を絶やさないお人柄。
私がかって出会ったことのない明るくて温かい新しい
武道の先生にめぐり会ったのです。
振り返れば沢山の素晴らしい先生たちに出会いました。
大阪で金田昌久先生に
東京で大山倍達先生に
四国で芦原英幸先生に
亀岡で奥山忠男先生に
そして出口聖子大本四代教主様に
それは空手から言霊剱に、
そして和良久へと続く道でした。
求めれば必ず必要な人に出会い、必要なことを授けられるようです。
それはやがて天に帰るための準備のような気がします。
どうも人の出会いは螺旋しているようです。
続く・・・