「飾らない言葉」
話というものは、話し方も大事ですが、
聞くほうも、聞く体制が出来ていなくては
流れが滞ってしまいます。
聞く方が、重箱の底をつつくように、
最初から批評をしてやろうと構えていると、
それ自体で話す気が失せます。
相手が、本当に心から話す相手かどうか、
眼を見ればそれは分かります。
特に、その方がスピーチのプロではないのに
単に話す内容だけ聞いて、
その人の思想にまで介入するのは、
まことに無礼であり、また余計なおせっかいの
何ものでもないでしょう。
出す側、受け入れる側の関係は、
教える側、教わる側の関係と同じで、
これは武道で言えば、打つ側、受ける側
といった技の交換とも一緒です。
職人さんは、物を作るのに命を削っています。
集中しているさなか、しゃべることは
集中を欠くことになります。
ですから自然無口になります。
職人さんは、物をつくってこそ、
その人のもって生まれた特性を
現すことが出来るのです。
物をつくる・・・これが、もっとも、
職人さんの命が輝く瞬間なのです。
本当に、その人を知りたければ、
その人の仕事を観ればいいでしょう。
私の知る限り、いわゆる話し上手な職人さんは
見たことがありません。
彼らはとつとつとして、一様に口下手です。
しかし、ひとこと、ひとことに重みがあり、
表現力に乏しいながらも、
心の琴線に触れるものを感じます。
それは、体験をのみ通して得た感性が、
言葉を超えた息の響きとなって、
相手の中心を捕らえているからなのでしょう。
スピーチがうまい、話し上手って一体なんでしょう。
立て板に水が流れるが如き、流暢な言葉が
出るにこしたことはありませんが、
汗をかきかき、詰まりつつ、照れながら、
一生懸命話す姿勢にこそ
好感をもてるのではないでしょうか。
また、聞く方も、表面の言葉飾りばかり観てないで、
その人の本質を見抜く、心の声を聞くことが
大事なのではないかと思います。
言霊とは、言葉を飾る技術ではなく、
音声そのものがもつ魂の顕現であり、
音声のもつ螺旋のような響きです。
そして、螺旋は動きを現出させます。
呼吸、音声、動きの根源力が言霊から生まれるのです。
日本は言霊の幸はう国であって、
言葉を飾る国ではありません。
本物を見る眼と、聞き分ける耳をもつのが
日本人であったはずです。
人が集中したとき、音は消え静寂が訪れます。
達人は静かであると昔からわが国では言います。
音楽家は、音楽を奏でている時がその人の本来であり、
武道家は、武道を稽古しているとき、
料理家は、料理をつくっているとき、
お百姓さんは、土をいじっているとき、
それぞれの分野で一心に仕事に専念している時が
その人のもつ最高の姿ではないかと存じます。
また、それが言霊であると思います。
先日、ある国に行ってきました。
そこはとても広く雄大な国ですが、
広ければ広いでその場に合った思想や行動が
生まれるものだなと思いました。
広いのも大変です。
帰国して、あらためて何につけも
日本は「丁度良い国」であることを嬉しく思いました。
続く・・・・