特定非営利活動法人 武道和良久

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誌上講座442


「九鬼武産龍王」(2)


私は、実は何も分かっていない、
ということが最近よく分かりました。

分かっているのは、
まだまだほんの一分だけだったのです。

稽古が進めば進むほど、
肝心の部分が見え隠れしてきます。
また、その大きさに時に
物凄く怖くなる思いをいたします。

本当にこれでいいのかと自問自答の連続です。
ただ何かに突き動かされるようにして
稽古を続けています。

もっと明確にしなければと、
インナートリップを繰り返しています。
回顧録を公開するのもその手段のひとつです。

そうなると、頭で考えるのは苦手なので、
縁有るところを訪ねることが
最も何かを得る手立てになろうはず、
と考えました。

頭より、腹です。
腹で納得していかなければものになりません。

まず和良久の稽古場の広がる範囲を見ますと、
竜神、水軍言霊などのキーワードが出てまいります。
ご縁とは異なものです。

これらから探ってみて、
ふと三重に行くことにしました。
三重は水軍の里。

九鬼水軍の将、九鬼嘉隆公が
果てた島があると知ったからです。

私の中で「天之叢雲九鬼武産龍王
(あめのむらくもくかみさむはらりゅうおう)」
という神名が心に残っていました。

これは植芝盛平先生が己が武の技を発揮するに際し、
守護を願った神ですが、

天に群がり湧き立つ雲間から力強く現れ出でし如くに
武の力を生み出す竜神の王という意味です。

竜神とは、もちろん八力の働きを司る神のことです。

戦国の世に、最強の水軍である
九鬼水軍を組織してきた九鬼家には、
天地の森羅万象を操るというべき、
様々な秘伝が代々伝えられていました。

それは古代史、神代文字、祝詞、太占、兵法(武術)、
医薬など多岐に渡って詳しく解説されている
伝書があるのです。

これこそ「九鬼文書」と言われる、
丹波綾部藩の九鬼家に保管されてれきた、
古事記以前の書と言われるものです。

九鬼は水軍ですから、
和歌山、三重などはホームタウンです。
植芝、井上両師は和歌山、また奥山師は愛媛。
ともに瀬戸内海から熊野にいたる水軍の道筋です。

また、わが空手時代の師、芦原英幸は広島の出身で
愛媛で活動・・・と言うように、
何と水際の出身者ばかりであり、
彼らの共通する技は「螺旋」であり、
それを駆使した絶対的強さなのです。
螺旋の技とはツルギのエネルギーのほとばしりであります。

また、それは佐々木小次郎や武蔵で比較すれば、
明らかに、小次郎タイプ、つまり力に頼らず
合理的な技をもって対処する技巧派であり、
仏教系ではなく神道系なのです。

まるで潮の流れのように、
また海中に吸い込む渦潮のように、
その技の優美さと強さは、
武術を超えて芸術的でさえあります。

これら武道家たち、直接、水軍との接触はないにせよ、
その霊系はまさしく共通して道統を継承していると
言わざる得ません。

私も、福知山で生まれ、愛媛で鍛えられました。
螺旋の世界に身を投じるご縁を頂戴し
今日に至っています以上、
偉大なる師の君たちとの何某かのつながりがあることを
嬉しく思い、自分探しを思い立ったのです。

答志島はそんな思いをもってまいりました。

武道は、本来、鎮魂帰神の神術と言われています。
九鬼文書も、鎮魂帰神の法について解説されていますが、
私は取り分けて、この鎮魂帰神法について必要以上に
突っ込みたくはありません。

倫理道徳をわきまえ、悪神に心奪われることのない、
しっかりした人材育成こそ急務であり、

オカルトにとらわれない、本当の意味で和良久が
まことの神様のお力が一人一人に加わる術であれば、
これに越した幸せはありません。

私は、出来ればこれが「とどめの技」であればいいなあ、
と思っています。

善と悪との大戦い・・・と、神様は宣言しています。
そして、今度の戦いは絶対負けることが出来ない、
とも言われています。

もし負けたら悪神どもに
この世を譲らねばならないからです。
こうなれば必死です。

それならば、この戦いに勝つため、
最後の軍勢を結成し、訓練してやろうじゃないか、
と私は単純な頭で思いたちました。

さて、言うことが殺伐としてきました。
「戦わない武道なのでしょう?」とお叱りを受けそうです。

でも、前にも申しましたように、
和良久は人とは絶対戦いません、が、
しかし、悪魔とは徹底的に戦うつもりでいます。

「人と戦わない」とは、
悪魔に力を与えないということなのです。
(悪魔は人と人と争わせて、
そのエネルギーを糧にしているのです)

悪をも受け入れる大きな心を・・・
などと言う方がおられますが、
そんな悠長なことを言う時期はすでに
タイムリミットとなってしまったのです。

そこまで宇志採羅根真大神は、
十分過ぎるほどに猶予を与えてきたのです。

しかし悪神は改心どころか、何度の警告をも無視して、
ますます世を乱れに乱れさせてきた・・・
もうこれ以上いくと人類が破滅するところまで
きてしまいました。

とうとう待ったなしのところまできてしまったのです。


人と人との争いの原因は「われよし」であり、
それによる人どうしの戦いを「共食い」といいます。
共食いは悪魔のもっとも喜ぶ行為です。

地上に、もうこれ以上の犠牲を払いたくないと思いますし、
これで世界の戦も終わりになればと切に願っています。

また、キリストやある瑞の御魂の霊系の方のように、
誰か選ばれた特定の一人だけが、
万民の罪をあがなうということも、
神を崇める者の一人としてもうさせたくありません。

これは四代様がご昇天されたときに、
痛切に思ったことでした。

「一人だけにつらい思いをさせない、
皆でやればそれを防げるはず」と思いました。

そして今ならまだ間に合うと。

力あるものを集め、軍備を整え、結界を張り、
この日本を守る。
力が無ければ力を得させる訓練をする。
(そのための訓練として世に出したのが和良久です)

そんなことをいたって真面目に考えました。

「進め、言霊神軍(ことたまみいくさ)よ、
十曜の御旗高くひるがえる」

「言霊つるぎ振りかざし、醜の曲霊をことごとく、
言向けやわし地の上に、
奇しき楽しき神の国を 建てて・・・」

聖師様の歌にある一節ですが、私たちの言う軍備は、
もちろんわれよしや、共食いによる
血なまぐさいものではなく、
悪神への抗戦のための備えのこと、
つまり言霊の水火の力をもって戦うことです。

姿無き脅威は、確実に我々を侵略してきています。

縁有る人々には、その侵略を阻止する
武器であるツルギを取っていただき、
またそのツルギの使い方を
学んでほしいと思っています。

悪神やヤマタノオロチを退治する武器は
ツルギしかないと言われています。

ここで一言申し上げますと、ツルギは鉄や銅で出来た、
刀のような人切り包丁ではありません。

ツルギとは、体内よりほとばしり出るエネルギー
(これを矛という)が、外に向けて螺旋しつつ
光となって放射したもので、
破邪顕正の力を持っています。

宗教や哲学、心理学などで、霊と体については理解し、
またそれが備わった方は確かに多いようですが、
しかし、「力」の使い方を知る方は少ないようです。

「霊、力、体」の三つが揃ってこそ万全の体制であります。

これは璽鏡劒の「三種の神器」ということであり、
これを捧持してこそ日本国は安泰であり、
また大和の国人と言えるのではないかと思います。


和良久が生まれた経緯について確実に言えますことは、
まず、芦原英幸先生との出会いにより
直線から曲線の実際的活用法と効果を体得できたこと、

次に、植芝盛平先生の合気道、
井上方軒先生の親英体道、
また奥山忠男先生の劒など、
大本の先輩の武人たちの存在が
深く影響を与えてくださったことです。

そして、無骨な武の技に柔和な光を当ててくださった
四代様の存在が、現代あるような洗練された
和良久の体系を築く礎となりました。

それらは大本という土壌なしには成し得ませんでした。

その土壌こそ「うしとらのこんじん」様の磁場であり、
だからこそ、このような摩訶不思議であり、
しかもよく理にかなった武道が誕生したのだと言えます。

それら、どこの既成武道の枠に当てはまらない
理念と技は、これまったく人為的所業ではないことは
少し稽古していただいた方なら誰しも感じることでしょう。

大いなる他力が加わってこそ
偉業が成し遂げられるわけですが、
その他力を引き寄せるのは
精一杯の自力に他なりません。

その他力を引き出すために自力を高めるということを、
今の日本人は忘れています。

体を鍛えることを外国のスポーツに求め、
気持ちも体も外国人になりきることで
世界に対抗できるように思っています。

柔道も、剣道も、空手も皆競技システムとなり、
「稽古」ではなく、練習、いえ、
トレーニングをするようになってしまいました。
もう、それは武道ではなくスポーツです。

ちなみに稽古とは、古を思う、考えるということであり、
それは、先人たちの築いてきた技と心を
忠実に再現することです。

また、稽古は古き日本の伝統文化を守ることであり、
そこに外国のものを取り込む隙は本来ないはずです。

しかし、隙のないはずのその文化に
外国の風が吹き込んできたのです。
そして、風邪をひいてしまったのです。

スポーツは、心と体を知らず知らずに
損ねるように出来ています。

日本でスポーツが生まれていないことがその証拠です。

スポーツは戦争のための術です。
そのルーツは、まさに
弱肉強食の殺し合いから発しています。


そこに健全な精神など宿るはずもなく、
競技場にはわれよしと共食いの惨状が、
娯楽性とショーアップの幕に隠れて、
公然と繰り広げられています。

いまアテネでいまオリンピックが開催されていますが、
私には世界的戦いのルーツが偲ばれてなりません。

スポーツ選手のような爽やかな人・・・と言いますが、
もしスポーツ選手などが政治などに携わったら
世の中大変なことになってしまいます。

スポーツで優秀な成績を上げた者を
ヒーロー扱いする風潮もどうかと思います。

勝てば、お金も名誉も権力も手に入る・・・
選手本人も「自分は特別なんだ、偉いんだ」
そう勘違いするほど周囲が騒ぎ立てるのも
どうかと思います。

話がとんでもない方向へ行ってしまいましたが、
そういった外国の体主霊従的な運動形態と、
われよしの思想に厳然と背を向け、

「時代錯誤だ、へそ曲がりだ」と言われても、
明日の日本を憂い、心から日本の国を愛した
一握りの武道家たちがいたことを
私たちは忘れてはなりません。

物腰静かにして、鉄人の如くあるも、
それは人知れず過酷な鍛錬を積みし結果であり、
そして背筋を伸ばし、意義を正して
神の子に仕えた影の存在たち。

こういった一握りの武人たちの存在によって、
いまの日本が築かれたことをもう一度言いますが、
忘れてはなりません。

柳生宗矩は徳川家に仕え、
徳川を影から支えてきました。

この如く、武の道は影であります。
古来、武術流派を陰流と称するも、影流と称するも、
この意から出たものでしょう。

日本武道は、陽の当たるところに出るような
技は持ち合わせておりません。

その代わりに、武道の立ち居、振る舞い、
思想などが体現されたものがあります。

能楽、茶道などがそれです。

これら能楽、茶道は武道の表であり、
武道は裏であり根です。
武道が表に出たら、その時は争いの来る時です。

そうなってはなりません。
常に影に控えているべきものです。

私たちはその意思を継いで、影になり、
たとえ一握りでも日本を支えるような
力をつけたいと思います。

さて、武道の偉大な先人たちの目論みは
共通しています。

「水火の力を活用して、神の実在を感得し、
もってみろくの世を招来させる神柱となるべき
尊い方の手足となって仕えるための訓練」
ということにあったのではないかと思います。

大事なポイントは、武道家は決して表に出ることなく、
あくまで影になって支える存在であり、しかし次元を
超越した絶対的に力強い存在であることなのです。

影であるけれども、その存在感は山の如く大きく、
絶対世に無くてはならない存在であります。

これこそ私たちの継承すべき姿なのではないか、
という思いが近年とても強くいたします。

物欲にとらわれ、とりあえず目先もの
(権力、財力、名声)を欲しがる者。

内にじっとしておられず、陽の当たる場所へ出て
目立ちたがるような方は
この道は向いていないと思います。

例えば、家を建てるときの基礎工事のように、
見えない部分こそがしっかりしていることが大事です。

人の踏み石となり、土の中に隠れた根となって、
表に花を咲かせる勢いを与える役。

そんな自分を誇りとする方が神代より伝承された
日本武道の道に向いていると思うのです。

誰も賞賛はせず、拍手も喝采もない世界ではありますが、
人のもつ本来の力と尊厳を取り戻す稽古を伝承していく。

日本武道・・・
これほど人類にとって必要欠くべからざる
大事な鍛錬法は他に無いと
私は心から誇りに思っています。


続く・・・