「水火(いき)と息」
生きている・・・とは、
息をしていることであるが、
その活動量、または動き方によって
様々な呼吸の仕方が行われている。
激しく動くとき、早く動くとき、
ゆっくり動くとき、
じっとしているときなど、
それぞれに応じて
呼吸の仕方は変化しているのである。
それをことさらに、細かく区切って、
吸うだの、止めるだの、長く吐くだのと言われて
行うのは、まことに余計なおせっかいである。
どういう呼吸が適切なのかは体自身が知っている。
呼吸は、いわばオートマチックだ。
世には実に多くの呼吸法がある。
腹式呼吸法
胸式呼吸法
丹田呼吸法
逆式呼吸法
はたまた、ライオン呼吸法とか
動物の呼吸の仕方を真似るものまである。
外国から来た武術や健康法の影響であろうか、
近頃、これは人間が行うとは思えぬ妙な動きで
吐いたり、吸ったりしているのを見かける。
さかりのついた動物のような呼吸をするのを
見たときには寒気がしたものだ。
お腹を無理に膨らましたりへこましたり、
眼をむいて、小刻みに息をする様は、
まさに動物霊の懸った状態である。
万物の霊長たる人間が、なぜ動物のまねなど
するのか分からないが、そういう人たちは、
きっと前世が懐かしいのであろう。
また、これは呼吸法とは関係ないことであるが、
近頃、○○心理学と言って、
人を動物にみたてるのが流行っている。
例えば、生年月日に応じて、人に「黒ひょう」とか、
「タヌキ」とか、その人の性格にあう動物名をつけて、
その人の名を呼ばず
失礼にも動物の種類で呼び合うのである。
誰でも理解できて、楽しい・・・から流行るのであろうが、
このように「簡単に分かってみんなで楽しく出きるもの」
には実は落とし穴がある。
せっかく人として生まれさせていただき、
神から賦与された尊い魂をもちながら、
お互い動物呼ばわりして、知らず知らず、
人間としての尊厳を欠落させ、
魂の次元を下げていく・・・
これはまったく巧妙な○神の仕組みのひとつである。
決してわが言霊の幸はう国日本で
行うべきものではない。
このように、元来日本に無かったものが
いつの間にか入り込んできては、
わが国の呼吸を乱している。
さて、呼吸法、呼吸法というが、
人は酸素の出入だけで生きているのではないことを
知っていただきたい。
呼吸の仕方を気にしなくても、
人は空気を吸わないといけないときに吸い、
吐かなければならないときに吐いている。
もっと、大事なことは、そういった「息の仕方」より
「水火の仕方」を学ぶことである。
水とは、右であり、身儀であり、それは体であり、
また陰であり、マイナスであり、
火とは、左であり、霊垂であり、それは霊であり、
また、陽であり、プラスである。
息の仕方は、酸素の出入のことであり、
水火の仕方は、
全大宇宙のエネルギーの出入のことである。
息は、鼻や口を通してのみ入るものであるが、
水火は、耳、眼、口、鼻をはじめ、髪の毛、毛穴、
皮膚などを通して、全身から入ってくるもので、
宇宙に偏在する様々なエネルギーを取り入れ、
また排出しつつ、われわれは生かさせていただいて
いるのである。これが水火である。
しかしてその水火は、全身から入って、そして出て行く。
その深遠微妙、かつ膨大なエネルギーを
体内に取り込むには、全身を螺旋させ、
そこからおこる求心力によって流入させ、
またそこからおこる遠心力によって放射することである。
水火は出すから入ってくるのである。
水火の根源は「ス」の言霊であり、
主なる神の息吹であり威徳である。
この神の水火を受けることに心をかたむけること、
それが人としての向上の道と知るべきである。
我々は、すでに神から
「正しい水火とはスウアオエイである」
と示されてある。
「スとともにある」とは、けがれの無い澄み切った魂、
そしてそれにともなう秩序正しい言葉と行動のことである。
すなわち「われ神とともにあり」と同義語である。
何事にせよ、その水火の力を行ずることによって
魂が向上してゆくのは確かだ。
世にはたくさんの稽古事がある。
「それ」を行ったから、事故や怪我に見舞われることが
無くなったとか、人望が厚くなったとか、
礼儀礼節をわきまえるようになった・・・とかいう
よき方向へ向かう実践力につながらなければ
意味が無い。
すべて人は、神を知り、神に近づくために
稽古鍛錬を行わねばならない。
これを鎮魂帰神の神術(みたましずめのみわざ)という。
まず、自分の名誉のためとか、お金のためだとか言う、
私的なことを離れて稽古は成立しなければならない。
「人格と技術は別物だ」と言うスポーツは、もちろん
鎮魂帰神の術には当てはまらない。
体主霊従〜心より物・・・つまり、物質万能主義、
弱肉強食、のわれよしの精神を培う鍛錬が
スポーツである。
オリンピックのように
「金」の取り合いを目的とするなど
まったく論外である。
健全なはずのスポーツの周囲には
いつも争いごとが絶えず、
またビジネス〜お金の匂いも
必要以上にぷんぷんする。
ある事業の成功者が言う。
「正しいほうを選んじゃいけない。
楽しいほうを選びなさい。
正しいほうを選んだらえらいめにあう」と教える。
魂の次元の高い人は、すでに神とともにあり、
物事を選択をするような迷いなどはない。
物事をくよくよと悩むことなく、
まことに淡々としたものなので、
この『人生の選択』などについては無縁のことである。
また、魂の綺麗な人は、何をしても楽しいし、
充実しているから、
やはりこの言葉は無用の格言であろう。
とすると、「楽しいほうを選べ」というこの格言は、
やはり凡人に対する助言なのであろうが。
しかし、我々のように、魂レベルが低い人が
「楽しいほう」を選んだらこれは大変である。
われよしで、身勝手な道を選ぶことになり、
社会的秩序が大いに乱れてしまう。
われわれはあくまでも「正しいがゆえに正しい道」を
選んでいく勇気をもつべきである。
つまるところ、その正しいことが
楽しいことに変わってくるのである。
近年の成功哲学に惑わされてはならない。
さあ、両手を組んで、ゆっくり大きく螺旋をしてください。
神があなたとともにあることを実感されるはずです。
続く・・・・