「鏡」
技を極めるために、一心に稽古を続けている人と
相対する時、呼吸も体も、そして持った劒自体も
緩やかにな状態に入ってきます。
このような状態の体験を重ねていきますと、
自然に相手も自分と同様の存在であることを
自覚いたします。
相手の息づかいで体の動きを予測出来、
また心の方向性もつかめてきます。
究極は、自分の思いとは相手の思いであるということ、
自分の動きは相手の動きである・・・
ということになる訳です。
つまり、相手の技を見極めるのでなく、
自分の心が相手の心になると言うところに
行き当たるのです。
これを「鏡」と言います。
相手の姿ではなく、心を映すこの「鏡」を身に着けたとき、
もう相手の動きや気持ちを探る必要がなくなってきます。
劒をもって、鏡を身に着けるるということです。
キリストの言う「自分を愛するように人を愛せよ」
の心境になります。
その体験を一人でも多くの方を相手にすることによって、
より鏡の実在を確実なものとしていく・・・
それが稽古ではないかと思います。
他即自、自即他・・・この自他の一体感。
これこそ水と火の融合でありましょう。
火は水によって燃え盛り、
水は火によって流れます。
自分を生かすのは相手であり、
相手を生かすのは自分であると言うことです。
人の心と体を追求していきますと、
人というものはその造りにおいて
基本的に差は見られないものです。
人に、もし、差があるとするならば、
その「生き方」ではないでしょうか。
稽古(人生体験)を積み重ねることによって、
目前の相手は、自分以上の、また
自分以下の者ではないということを発見するはずです。
もちろん、人間社会では礼儀と言うものは
無くてはならないものです。
相手の立場を尊重し、
相手を立てるということは大切なことです。
すべて神の子たる人を敬うことは、
その造り主なる神を拝することと
同じことであるからです。
それは、自分を大切に育んでくれている
すべてのものへの感謝の気持ちの
現われではないかと存じます。
必要以上に、相手を持ち上げ、
また見下すことの多い昨今、
出来れば淡々として生きる姿を、
大和と言われる日本に住む我々が
示していかなくてはならないのではないでしょうか。
続く・・・