稽古の段階 〜 思考を超える意識の発芽 その1
稽古では、まず基本になる動きをしっかり行い、
人をある一定の「型」にはめる。
少しの間違いも見逃さぬよう注意をはらい、
定められた動きを、一人でひたすら反復する。
自分自身の、体と心との調子・拍子・間を合わせることを会得する。
自分の体であって、自分の意志どおり動かない。
これを自分の意志どおり体が動くようにする。
これが第一段階の稽古である。
これを覚えないと次のステップに進めない。
つまり人と組んで技の掛け合いができない。
次にその型を実際にどう使うのかを、他人と相対して稽古する。
相手も自分も決められた技を用いてお互い攻防する。
相手との呼吸を合わせるのである。
つまり自分との調子・拍子・間を会得することから、相手との
調子・拍子・間を会得することへ段階を移す。
これが第二段階である。
そして次にいよいよ「応用」である。
何を、どう打つかお互いに知らせない。
非常に危険な稽古である。
使う道具も樫の木製の剱一本。
体には防具はつけていない。
・・・しかしこれが大事なのである。
当たれば、それも軽く触れても絶対にケガをする、
そんな危ない代物を使うから効果があるのである。
人は絶対的危険と背中合わせとなると、眠っている本能の眼が覚める。
その思考を超えたレベルの身体機能を使わなければ、
千変万化の攻防が出来ないのである。
それじゃ、何もこんな危険な木剱を使わなくても素手でやるか、
または防具をつけて真剣勝負の感覚をつくればいいではないか
・・・という意見があるが、これはいけない。
素手でやると、たとえ直接打撃で殴り合っても、
やはり「安全」であり、また素手で相手にダメージを与えようとすると、
かなりの数を打ち込まなければならない。
そうして、相手の体に直接触れ、数に任せて殴りつけ、
投げ合っていくうちに悪感情が、それも憎悪が湧き起こり、
やがては殺意へと変化する。
素手の格技には、そういった悪想念が発生しやすい場がある。
また防具を着用すると、人のもつ、肌から発する身体感覚が鈍感になり、
反応が遅れ、いざと言う時には間に合わない。
守りの技には「見切り」というものがあって、
皮膚に触れる直前にその皮膚上を覆っている霊衣
(俗に言うオーラのようなもの)が相手の侵入を感知し、即、
体を保護すべくコントロールさせる。
防具は「どうせ当たってもなんてことない」という防具依存症になり、
当てさせて、当てるという子供の喧嘩のような殴り合いを演じることになる。
木剱を使うと、相手はその木剱に注意をはらい、
その木剱にそった体の動きをなす。
相手の肉体はあるが、それは消え、お互いに木剱のみを観るようになる。
そこには、心も体も、お互いの剱と動きを同調させようとする作用が働き、
相手に対する倒してやるぞという悪い想念も起こらない。
技も、かなり精度の高い「呼吸と木剱と体が
一体となった統一的」な動きを繰り広げる。
・・・以上のような訳で、何もつけず、素面素小手の防具なしの姿で、
たった一本の木剱をもって、慎重に稽古を進めるのが一番良いのである。
しかし、それは理念と実践がしっかりした稽古形態が
あってのことであることを忘れてはならない。
何のための稽古なのか、その力の発生はどうやってつくるのか、
その力の使い方はどうやるのか、呼吸の使い方は、足の位置は、
手の位置は、目のつけかたは・・・
その他、すべてがはっきりとした技術体系を保有してないのに、
むやみやたら木剱で打ち合うのはもちろん凶器の沙汰である。
和良久には、八力という基本の型があり、これには思念の持ち方呼吸法、力の発声法、使い方が短い動きに簡潔に凝縮されている。
また「75剱」という八力を基調とした技があり、この技にそって慎重に
稽古をすれば決してケガなどはないし、悪い想念も起こらない。
通常の既製の武道は、相手が倒れるように、
相手が動けないように仕向けていくことを主に稽古をする。
しかし和良久は、相手の動きを止めることがないよう、
相手がスムーズに動けるよう計らって動くことを旨とする。
以前に、武道には、以下の1〜3のレベルがあるということを言ったが、
もう一度下記に記す。
1、「戦って勝つ」というレベル
2、「戦わないで勝つ」というレベル
3、「戦うも戦わないも、そんなものに縁のない存在」というレベル
このように和良久は、決して「戦う武道」ではなく、「戦わない武道」で
あると同時に「戦いに縁のない武道」であることを忘れてはならない。
続く・・・・